東日本大震災と、「絆」の終焉。-序章・1章


 この記事を書いたのは2012年の5月頃。だからもう5年前のことだ。当時大学3年生で、社会学という分野の特定のゼミをたいした理由もなく選択した、その春のことであった。当然専門的な知識もあまりなく (今もないのだが)、問いを立てて何かを調べて書く方法もよくわかっていなかった (これまた未だにわからないのだが)。それでもまぁ自分なりにけっこう悩みながら書いた。色々と不備は多いけれど、ここが自分にとっての一つのスタートラインだったのかなとも思う。テーマも内容も既にかなり古くなってしまった感が否めないが、311も近いこのタイミングで、再び公開してみることにしよう。

 なお、利用する文献に縛りがあったために、先行研究の選択の部分が違和感の大きいものとなってしまっている。これについては執筆当時から釈然としない思いを抱いていた。


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 「震災で 人と人との 絆増す」

 「震災で 絆と優しさ 思い出す」

   ―第25回サラリーマン川柳より


  ― 2ちゃんねる「『諦めよう日本!』っていうマークつくってくれwwwwwwww」より



◯ はじめに 「絆」という言葉と若者のナショナリズム

 先の東日本大震災を象徴する言葉として、「絆」という言葉が頻繁に使われた。「絆」は2011年の世相を表す「今年の漢字」にも選ばれている。その一方で、「絆」という言葉を連呼することへの違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。冒頭で挙げたのは、ほぼ同じ時期に作られた二種類の "作品" である。一方はサラリーマン川柳に応募され、選考員によって選ばれたものであり、他方が「2ちゃんねる」のなかでネタとしてつくられた作品である。震災への "温度差"、そして言い知れぬ "違和感" を浮かびだすものとして提示した。

 絆を連呼することに対して我々が違和感を感じてしまうとすれば、それはどのような理由からなのだろうか。若者のナショナリズムに関する代表的な議論として取り上げられることの多い、『ぷちナショナリズム論』(中公新書ラクレ) において香山は、「『"わたし"の国』『誇り高い国』『美しい精神の国』」といった言葉を「屈託なく」言ってのける若者を「無邪気なぷちナショナリストたち」と呼んだ。そして、若者が持つこのようなナショナリズムは「本格的なナショナリズムに傾いていく危険性」があると論じている。香山が、サッカーにおける熱狂的応援や日本語ブーム、『嫌韓流』の流行にみたこの危険性は、どこか今回の震災における「絆」という言葉の連呼に通じるところがないだろうか。事実香山は、震災直後の朝日新聞に、「絆」のナショナリズム化を危惧する記事を掲載している。

 いま、「震災ナショナリズム」とでも言うべき言葉が非常に強調されていますよね。一元的な価値観に傾いていくのではないかと、ある種の危機感を持って見ています。(…)

復興が進んで「やっぱり日本は優れた国だった」とか、原発の問題などで国際的な評価が下がったときに、「言わせておけばいい。日本はすごい国だから」といった、内向的なナショナリズムが高まることには慎重になりたい。根拠のない優越感は、弱者を排除する社会につながっていきますから。(…)

(2011/05/01朝刊・神戸地方面〔(明日も喋ろう2011)変節にも寛容な世に 精神科医・香山リカさん/兵庫県〕


 また、香山よりも端的に、「絆」という言葉を危惧する論者もいた。エッセイスト小沢昭一の記事を引用する。

(戦後における個人、民主主義の台頭について述べた後) 今回、「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが実はちょっと心配なんであります。いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への逆戻りの道になりゃしないかと、そんな気がするんですね。だから私たちの世代には「絆」ってのはちょっと怖い言葉なんです。耳にタコで、こりごりしてる。でも若い人たちには初めての新鮮な言葉なんでしょう。いつの間にか意味がすり替わらないように、気をつけなくちゃいけませんよ。

(2011/04/24朝刊・社会面〔(ニッポンみんなで)シブトク立ち直って 小沢昭一さんエール 東日本大震災 ])


 これらの例からわかるように、震災直後から「絆」という言葉を危惧する言説はいくつか存在していた。「絆」はナショナリズムと結びつくと考えられたがゆえに、その連呼に対して違和感と不安が表明されていたのである。 

 だが、「絆」という言葉がナショナリズムに結びつくと、短絡的に考えても良いのだろうか。例えば、先に挙げた香山の「ぷちナショナリズム」論に対しても、批判は多く存在する。浅羽道明などは『ナショナリズム』(ちくま新書) において、香山の取り上げる事例が「ナショナリズム風化の証」でしかないと論じた。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス) においても、浅羽の論が支持されている。ここから導き出せるのは、「絆」を連呼するという行為から単純にナショナリズムの高まりを見て取ることは不可能なのではないか。むしろ「絆」といったものを持ち出すだけで容易に他者とつながりうると思えてしまえている現状自体が、ナショナリズムの風化を意味しているのではないかという可能性である。

 先に引用した香山・小沢の記事が掲載されたのと同時期の朝日新聞にも、「絆」という言葉はナショナリズムとは異なる可能性を持つという記事があった。『敗北を抱きしめて』の著者ダワーへのインタビュー記事を引用しておこう 。

(…) 私が注目しているのは、日本のいたるところで、助け合いやコミュニティーの感覚が生まれていることです。困っている人をなんとか助けたいと若者たちが考え、被災地でボランティアをしている。そこにあるのは、宮沢賢治が残した詩『雨ニモマケズ』にあるような質実で献身的な精神です。自分のことだけでなく、コミュニティーのことを、責任を持って考えています。これまで批判されてきた攻撃的で対立的なナショナリズムとはまったく別物でしょう。(…) 今回の危機で明らかになったのは、日本社会のしなやかな強さでした。

(2011/04/29朝刊・オピニオン〔(インタビュー)歴史的危機を超えて 米国の歴史家、ジョン・ダワーさん〕)


 ここまでで、我々は若者のナショナリズム論を巡る二つの方向性と、震災直後の「絆」報道における二つの方向性を確認してきた。一方がナショナリズム化を危惧するものであり、もう一方がナショナリズムではない、もしくはナショナリズムとは違う性質をもった何かであると論じる方向性である。

 若者のナショナリズム論と「絆」報道に関するこうした二つの方向性を踏まえるならば、「絆」報道についての検証を、若者のナショナリズム論から始めることに意義があると考えられないだろうか。本論はこのような観点に立ち、いくつかの代表的な若者のナショナリズム論を参照しながら、「絆」という言葉の連呼とナショナリズムの可能性について検証していくものである。同時に本論は「絆」という言葉のモード (流行) の軌跡を描いたものでもある。90年代以降上昇していく「絆」指向が震災に結びつき、「2ちゃんねらー」によってネタ化され消費されるまでの過程を書き出すこと。これが本論の第二の目的である。

 内容に踏み込む前に、具体的な検証方法についてここで簡単に説明しておくことにしよう。まず、朝日新聞データベース「聞蔵」を使い1995年の阪神・淡路大震災当時の報道と2011年の報道を比較する (第二章) 。ここから、メディアがどのように「絆」という言葉を使用したのかを明らかにする。

 つづいて、「絆」という言葉がどのように受容されたのかを、「2ちゃんねる」から調査する (第三章) 。なお、この調査は限界の多いものとなってしまったことを先に断っておく。まず、データの扱いが難しく、使用するデータの選択が恣意的になることは免れないという問題がここにはある。また、「2ちゃんねる」は掲示板として相当の規模を誇るため、その全体像を捉えられたとは言いがたい。

 いずれの調査においても、時間的な制約やデータを単純に扱うことの困難性が存在している。したがって、"素朴" な調査による "素朴" な結論になることは免れない。それでも、この単純な調査から、「絆」という言葉が持つ力の一端を捉える事ができたなら幸いである。

 以上のような作業を通して、起源が不在である「絆」という記号が、ナショナリズムという確固たるものへと変わる前に消費されていく過程を描き出すこと。それが本論の最終的な到達地点である。



◯ Ⅰ 若者のナショナリズム論 先行研究


 この章では、調査に先立って若者のナショナリズムについての代表的著作をいくつかまとめていく。なお、まとめには本田由紀「現代日本の若者のナショナリズムをめぐって」『軋む社会』(双風舎) を適宜参照した。


(1) 香山リカ 『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)

 序章で先述したとおり、香山は本書にていくつかの現象を取りあげながら現代日本のおける「ぷちナショナリズム」の危険性を論じた。先にまとめておくと、本書における香山の論には次の二つの特徴がある。第一に心理学の概念を援用した説明、第二に社会階層の視点を取り入れた分析である。とくに前者のが香山に特有の視点であろう。香山の視点に則れば、ワールドカップの応援などに見いだせる「ぷちナショナリズム」的現象は、次のようなものとして分析されることになる。

 「ぷちナショナリズム」は、エディプス葛藤、つまり「父親に敵意を抱くと同時に、父親からの威嚇に脅える」ことの不在によって引き起こされている。いまの子どもは「子ども側にそもそも何かをコンプレックスとして人格の内部に貯蔵するだけの心の体制が作れなくなっ」ており、それゆえエディプス葛藤を経験しない。そして、このようにコンプレックスを経験しないままの「屈託のない」若者たちが、歴史から切り離されたナショナリズム (歴史認識を欠いた「愛国」ごっこ) を掲げるようになったのである。これこそが「ぷちナショナリズム」現象なのだ。

 以上が香山の論のまとめである。こうした香山の論に対しては様々な批判を加えることが可能だが、それは本論の仕事ではない。ここでは序論にて触れた通り、浅羽道明が自著『ナショナリズム』のなかで、香山が「プチナショナリズム」の例として挙げるサッカーワールドカップでの熱狂的応援や「日の丸」を屈託もなく好きだといってしまう若者といったものは、「むしろナショナリズム風化の証」であり、危惧するようなものではないと論じていたということを、改めて確認しておこう。


(2) 北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)

 浅羽による香山へのこのような反論に一定の理解を示したのが北田暁大であった。『嗤う日本の「ナショナリズム」』から、関連する内容をまとめておく。

 北田によれば、ポスト90年代は、80年代的アイロニーの感覚を継承しつつ、繋がりの社会性の上昇から消費社会的シニシズムが徹底されていく時代であるという。北田はこれを「ロマン主義的シニシズム」と呼んだ。この空間においては、「超越的・代替不可能な他者」(80年代においてそれはギョーカイであったのだが、それ) が欠如している。「何がネタで、何がベタか」の基準を供給してくれる存在がいないのである。したがって、「ネタを信じている他者 / ネタを信じていない自分」という区別は、具体的な行為の水準で逐一確認されなければならない (ネタ / ベタ という区別の失効)。また、自身の行為に接続する存在は「不確定な他者」のみであり、「不確定な他者」への「接続可能性」のみが、「私」の行為を動機付けることになる。「ロマン主義的シニシスト」は、このように不確定な可能性のなかで、「たえず自らのアイロニストぶりを証明し続け」ることを強いられているのだ。 こうした状況のなかでなお、「アイロニカルであれ」と命令された主体がポスト90年代の「ロマン主義的シニシスト」だったのである。

 こうした形で「ポスト90年代」を理解したうえで、北田は「ナショナリズム」について次のように論じる。「ナショナリズム」「反市民主義」とは、こうした困難な状況が生み出す複雑性を縮減するための仕掛けであった。「ロマン主義的シニシスト」にとっては、行為の接続可能性のみがリアルであって、彼らはその仕掛けの内容にはとくにこだわらない。まず、「私の行為が他者によって接続され (=他者に承認され) てほしい」という実存的欲求がある。「ナショナリズム」は、そこから事後的に仮構された「理由の備蓄点」でしかない。嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、不遜な実存主義だったのだ。そして、その意味で、香山リカが「社会の漠然とした右傾化傾向」の徴候としてあげる事例を「ナショナリズム風化の証」だとする浅羽道明の議論は正しい。このように北田は主張するのである。


(3) 本田由紀 「現代日本の若者のナショナリズムをめぐって」『軋む社会』(双風舎)

 我々は以上のような香山・北田の論をどのように受け止めるべきなのだろうか。あるいは、これらのナショナリズム論は、どの程度妥当なものなのだろうか。

 本田由紀は、「現代日本の若者のナショナリズムをめぐって」と題された文章のなかで、香山・北田の論を取り上げながら次の点を批判している。① 両者とも「突出したピンポイント的な事柄や事件などを論拠として」いるため、「実証的」ではない。 ② 特に北田の説は「社会階層的な視点がすっぽり抜け落ち」ており、「ロマン主義とシニシズムの混交が、日本の若者にどれほど広範囲に観察されるものなのか、あるいは、いかなる特徴をもつ社会集団がその担い手になっているのか」を明示していない。

 こうした批判を展開したうえで本田は更に、いくつかの実証的なデータを提示しながら、ワーディングや調査時期によって日本のナショナリズムは異なる様相を表すこと (実態把握の困難性) を指摘する。そして、実態の把握には、「質的なデータと量的なデータの双方の利点を生かした丹念な検討が必要である」ということをここで改めて強調している。

 また、以上の論を踏まえて本田は、若者のナショナリズムよりも、政治家やマスメディアを問うべきであると提言する。「政治家やマスメディアのなかで、国民の間にナショナリズムを鼓舞し、それを利用する動き」があからさまに観察される。したがって、今後若者の行動に何らかの変化が見られたとしても、それは「意図的な操作・誘導」が反映されたものだと見るべきである。そして、ナショナリズムの危険な暴走を抑制するためには、そのような政策・メディア批判を行うことと同時に、「若者の内部に不安や不満を生み出す根源的要因を可能な限り取り除く」ことが求められるのである、と。

 本田のこうした指摘を我々はどの程度の誠実さをもって受け止めるべきなのだろうか。まず、質的量的データを一切示さずに、若者のナショナリズムの変化を「意図的な操作・誘導」によるものであると結論付けてしまうことには疑問が残る。そうした姿勢こそ本田が香山・北田を取り上げながら批判した点であったのだから、ここには矛盾がある。また、北田がすでに指摘しているように、「2ちゃんねる」においては政治家やマスメディアは「嗤い」の対象とされている。本田のいう「あからさまな」ナショナリズム鼓舞がどれだけの若者に影響を与えるかはやはり疑問だ。

 しかし、香山・北田への批判は的を射ている。それは確かだ。また、量的調査による正確な実態把握は困難であり、政策・マスメディアといった、若者に影響を与えうるものの分析に眼を向けるべきであるという点も同意すべきであろう。

 ここまでの論を整理したうえで、ここから本論が行う調査の方向性を導出しておこう。若者ナショナリズム論に対する本田の指摘、すなわちピンポイントな事件のみを扱うことによる弱点は当然克服されるべきであり、政策やマスメディアの批判を行うべきであるという点についても、我々は同意する。一方で、香山や北田の論が一定の説得力をもっているのも確かである。とくに「絆」連呼がナショナリズムに接続されうるかを問う我々にとって、香山・北田の間に存在する差異は示唆に富むものであろう。

 したがって、本論では続く二つの章において二つの調査を行い、この両視点から補完する形で、「絆」という言葉の実態を明らかにしていくことにする。では、具体的にどのような形で調査し補完するのか。まず、次章 (第2章) では、1995年に発生した阪神・淡路大震災と、東日本大震災における報道を比較し、「絆」言説についての量的・質的な分析を行う。そのうえで第3章では、北田の論に寄り添う形で、「2ちゃんねる」における「絆」という言葉への反応を探っていくことにする。「2ちゃんねる」において、「絆」は一体どのように受容され、ネタにされたのだろうか。



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