東日本大震災と、「絆」の終焉。-2章


(2017/3/11コメント) 調査編。いまになって振り返ってみれば本田の見立てが正しかったのだろうと思える。ただ、本田の批判は、問題意識はよくわかるのだが、批判としてはあまり成立していない。受容する側について書いた文章に対して、「意図的な操作」の可能性を見ていくべきだといったところで、それほど意味はない。せいぜい、「じゃあどっちも見ていきましょうね」となるくらいだ (そして確かに、どっちもみられるのならそれが一番良い)。本論は、なるべくどっちも見ようとして、時間が足りなくなった。


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◯ Ⅱ 調査:阪神・淡路大震災(1995) との比較から

 (1) 調査内容と調査方法

 前章にて確認した通り、本田は、若者ナショナリズム論の弱点を指摘しながら、迂闊にも自身がデータを提示しないまま論を進めていた。彼女は一切のデータを示さないまま「国民の間にナショナリズムを鼓舞し、それを利用する動き」が存在するとし、そのうえで、若者の動向の変化については背後にあるマスメディアの「意図的な操作・誘導」を疑うべきだという。

 本章における調査の目的は、① 香山・北田の論がもつ、ピンポイントな事件 (「ワールドカップ」「元気のでるテレビ」「2ちゃんねる」等) のみを扱い「実証的」ではないという弱点を克服しつつ、「絆」とナショナリズムの関係を探っていくことである。また、② 本田がいう「操作・誘導」は存在するのか (しうるのか) に対しても目を配る必要はある。

 では、以上2点を満たす、具体的な調査方法を述べる。調査には、朝日新聞データベース「聞蔵」を使用する。新聞は一般的なマスメディアであり、その動向を探ることは少なくとも代表的なサブカルチャーから「ナショナリズム」を論じる北田の論よりは実証的である。また、その記事の内容の変化を調査することで、メディアがどのように若者の動向に変化を与えたのかを考察することが一応は可能である (ただし、当然メディアも若者の動向に変化を与えられる側であり、この両者の間には相互作用の関係がある。したがって、本来は本田の用いる <若者の動向 / マスメディアによる操作> などという区別は成り立たない。これを踏まえて、先に「『操作・誘導』は存在するのか (しうるのか)」と書いた。実は、こちらこそ本論が狙いを定める問いである)。

 では、新聞というメディアに着目しながら東日本大震災の特徴を明らかにするためにはどのような作業が必要なのだろうか。本調査では、とくに阪神・淡路大震災が発生した95’との比較から、東日本大震災の特徴を明らかにしていく。震災同士を比較することで、まず単純に今回の震災に関する報道が、1995年の震災と比べてどのように変化しているのかを確認していくことにしよう。ただし、95’と11’を比較するにあたって、次の事項に注意する必要がある。

① 規模・範囲の相違:単純に死者・行方不明者数で比較しても、阪神・淡路大震災は6,437人であるのに対し、東日本大震災では約18,900人にも上る (2012/06/13現在)。また、阪神・淡路大震災は被害地域が関西であったことも報道を見るにあたっては考慮しなければならない。

② 95’は、地震発生から約2ヶ月後に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した年でもある。地下鉄サリン事件を含むオウム真理教関連事件は、「戦後未曾有」とまでいわれた事件であり、報道がオウム真理教関連事件に傾いたことは明らかである。一方、東日本大震災では福島第一原子力発電所における原発力事故が発生した。この事故によって、直接地震による被害を受けなかった地域の人々までもが、〝放射能による見えない被害〟の被害者になり、あらゆる人が地震に関係せざるをえなくなったのである。こうした "見えない被害" が震災報道を加熱させた側面はあるだろう。

 以上より、阪神・淡路大震災と東日本大震災を単純比較することは困難であり限界がある。こうした限界の存在を常に意識しながら、「絆」という言葉に焦点をあて比較を試みていくことにしよう。


(2) 調査結果

 (a) 「絆」という言葉の推移を、単純な記事検索から追う。

 まず、「震災」「絆」というキーワードで、両震災後から一年間の記事を検索した。結果が以下のグラフである。

 このグラフからは、95’では「絆」報道が圧倒的に少数であったことを読み取ることができる。無論、11’との比較において、95’は「震災」報道自体が少なかった。これは考慮すべきであろう。しかし、それを差し引いてもなお、95’における「絆」報道は少ない。

 それどころか、そもそも95’阪神・淡路大震災では、この震災に特徴的なスローガンは存在していなかった。この震災についての数少ない特徴的な言葉として、「がんばろう、KOBE」というキャッチコピーは確かにあった。しかし、これはオリックス・ブルーウェーブが作りだしたキャッチコピーであり、その対象はあくまで神戸市民に向けられていたのである。2011年の復興プロジェクトで掲げられた「がんばろう!日本」とは、性質の異なるものであったといえよう。

 だが、やはり震災の規模の影響を等閑視してはいけないのかもしれない。そもそも阪神・淡路大震災は地方震災であったのであり、上記の結果は単純に、震災の地域と規模が原因になっている可能性がある。この可能性について検証するために、続いては過去の報道から「絆」というキーワードを含む記事を検索し記事数をグラフにしたものを呈示しておこう。結果は以下のとおり。

(*一応書いておくと、相関係数は+0.91。なお、98年の件数が突出しているのは「自殺者3万人突破」の、07~08年は「中越沖地震」の影響であると考えられる。)


 このグラフから次のことが見て取ることができる。

「絆」という言葉は、90年代後半からずっと増加傾向にあった。95’の阪神・淡路大震災当時においても、目立った増加はしていない。このことからも、「絆」という言葉を含む記事は、そもそも震災 (その発生・範囲・規模) に関係なく、増加傾向にあったのである。



  (b) 1995年と2011年における、地震に対する報道の変化

 ・朝日新聞による世論調査の比較

 続いては、記事の内容を比較していく。まずは、[震災後「絆を実感」86% 朝日新聞社世論調査] と見出しされた、世論調査に関する記事を引用する。(2012/3/21朝刊・1総合)

 朝日新聞社が実施した世論調査(郵送)によると、東日本大震災後の日本社会をみて、人と人の絆を「実感した」と思う人が86%に達した。震災後に寄付など何らかの支援活動をしたと答えた人も85%にのぼり、被災地を支えたいとの思いの広がりを感じさせた。震災後、日本社会の絆をどの程度実感したかを4択で聞くと、「大いに実感した」36%、「ある程度実感した」50%で、「あまり実感していない」11%、「まったく実感していない」2%だった。
(…) 震災の前後にこだわらず、一般的に日本社会の絆の強弱について聞くと、「強まっている」は14%、「変わらない」26%で、「弱まっている」が54%と半数を超えた。だが、「弱まっている」という人でも「震災後の日本社会の絆」については85%が「実感した」と答えている。
近所の人や地域社会の絆については「弱まっている」と答えた人が53%にのぼった。しかし、「大きな災害にあった時、あなたの地域では助け合っていくことができそうだと思うか」との質問には、68%が「できそうだ」と答え、「できそうにない」の26%を大きく上回った。調査は全国の有権者3千人を対象に2月上旬~3月中旬に実施。回答率77%。


 では、阪神・淡路大震災の当時はどのような世論調査が行われたのか。1995/12/22における【震災直後は考えたが「地震対策なし」が68% 朝日新聞社世論調査 】と見出しされた記事を引用する。

 大きな被害を出した阪神大震災から、年が明けるとまもなく一年になる。朝日新聞社が十七、十八の両日に行った世論調査によると「阪神大震災のような大地震が自分の住んでいる所で起きる」という不安を感じている人は六五%で、半年前の六月に行った調査の六四%と比べ、ほとんど変わっていなかった。
 しかし、防災用品の準備や家具の固定など、地震に対する備えは「阪神大震災直後は考えたが、とくにしていない」という人が四五%で最も多く、以下「考えていない」二三%、「震災の後で備えた」二一%、「震災の前から備えていた」一〇%の順。こちらは「のど元過ぎれば熱さを忘れる」の傾向が出ているようだ。
 (…)「阪神大震災の経験は、あなたの住んでいる自治体の防災対策に生かされていると思うか」という質問には「生かされている」三〇%に対し「そうは思わない」五八%と、否定的な見方が多数を占めた。
 調査は、全国の有権者三千人を対象に面接方式で行い、二千二百四十七人から回答を得た。有効回答率は七五%。


 95’における世論調査についての記事は、大体これと同様の内容であった。

 上に挙げた95’と11’の記事を比較すると、注目されている質問の内容が明らかに異なっていることがわかる。11’の調査において注目されたのは <絆の実感> <絆の強弱> <助け合い> であるが、95’の調査で注目されたのは <不安> <備え> <対策> であった。このことが示すのは、"95’当時は、地震と「絆」は結びつけて考えられていなかった" ということである。震災という同一の現象に対して、それを語るための語彙が変化しているのだ。この結果は先ほど確認した「絆」報道件数の増加に一致するものであろう。


 ・震災3ヶ月以内の朝日新聞における「絆」「震災」報道の比較

 続いて、震災から6ヶ月以内に掲載された、「絆」と「震災」に関する記事を検証する。

 11’のものについては、序章でも幾つか記事を引用した。この時期の記事の内容は次のように分類できる。①「絆」という言葉を肯定的に受け入れて「つながり」による「助け合い」を唱えるもの。これが大多数であった 。 そのうえで、こうした潮流を踏まえながら、②「絆」という言葉の連呼に危惧を唱えるもの。序章で引用した、香山や小沢のような記事である。 さらに「絆」連呼を危惧する潮流を捉えたうえで、③「絆」という言葉にナショナリズムとは異なる可能性を見出そうとするもの。序章で引用したダワーの記事である。

*注: 一例として、以下の三記事を紹介しておく。「絆」という言葉が様々な人によって論じられたことを確認して欲しい。一般の人々の声として、経済気象台の声として、大学教授の声として…。 2011/04/18朝刊・オピニオン〔(声)絆の大切さ教えてくれた人たち 【西部】 〕| 2011/04/20朝刊・商況面〔(経済気象台)復興の軸は脱「利己主義」〕| 2011/04/24朝刊・福島地方面〔「絆、被災地支える」 姜尚中さん講演 東日本大震災 /福岡県 〕


 では、これに対して阪神・淡路大震災後の報道はどのようなものであったのか。まず、第一の特徴として、「絆」と「震災」を結びつけて論じる記事がほとんど存在しないことである (16件)。 オウム真理教関連事件後は、「オウム」と「絆」を結びつけて論じる記事がいくつか現れる (5件) が、これも少数であった。 いずれにせよ、大々的な事件と「絆」を結び付けて論じる傾向はない。

 第二の特徴として、(件数が少ないなかで)「絆」という言葉は "壊れた" "壊れつつある" というニュアンスのなかで使われていた。たとえば、95/01/28に掲載された【災害で人の絆もつれることも 村上知彦(漫画のカルテ)】という記事などを挙げることができる。また、オウム真理教事件についても、家族の「絆」が引き裂かれてしまう、といった内容の記事が複数あったことは注目に値する。例えば以下のように。

 オウム真理教(麻原彰晃代表)をめぐって次々に浮上する疑惑を、痛切な思いで見守っている人々がいる。入信・出家した信徒の家族たちだ。一切を捨てて出家することを求める教義は、いやおうなく家族の絆(きずな)を断ち切る。三重県では昨年、二人の女子高生が信徒の教師に誘われて入信、失跡した。名古屋の支部には、信徒を連れ戻そうと訪れる家族が後を絶たない。裂かれた家族の傷跡は深い。(…)
(1995/05/07 朝刊・社会面〔オウム入信、きしむ家族の絆 連れ戻し願う親 【名古屋】〕)

 このほかに、識者による記事では、オウムの事件は、共同体の解体にともなう「絆」の喪失と結び付けられてもいた (1995/05/17 朝刊社会面 〔オウム真理教成長の芽は社会に 麻原彰晃代表逮捕で識者に聞く〕。ほかに1995/06/15 夕刊一面 〔秋田光彦さん(オウムの闇 インタビュー特集:5) 【大阪】 〕など)。


 また、震災に関連するもので、市長が「絆」について論じた記事も存在するが、やはり11’とはやや論調が異なる 。引用しておく。

 震災をきっかけに、行政への関心の薄かった市民も我々に期待していることがよくわかった。絆(きずな)が深まったといえる。知事選では投票率アップのため何度も足を運んできた県幹部が、いまだに電話一本もない。こういう時こそ、親身になってほしい。
(1995/02/17 〔阪神大震災から1カ月 阪神間6市長から市民へ /兵庫〕)

 この記事において、「絆」は "これまで希薄であったもの" "市民と行政の間で結ばれるもの" であり、かつそれは県幹部との「絆」のなさを強調するために用いられている。人と人との間の「絆」といったことに関心は払われておらず、11'のように "絆が再確認された" といったことを喜ぶものではなかった。

 


 (3) まとめ : 「意図的な操作・誘導」の可能性? 

  (a) 調査結果のまとめ

 紙幅と時間の関係上簡略的ではあったが、11’と95’における報道の変化をまとめた。

 まず、「絆」という言葉は震災に関係なく、年々報道数が増加してきたことが明らかになった。また、阪神・淡路大震災当時には、地震と「絆」「つながり」を結びつけて報道をする傾向はほとんどなかった。「絆」報道のみに焦点を当てて比較しても、やはり95’と11’とでは内容が異なる傾向にある。

 95’の報道では、「絆」という言葉は、オウム真理教事件と結び付けられ、失われる、壊されることを問題とするために用いられていた (*市長が絆と震災を結びつけて論じていたものは数少ない例外である)。それに対して、11’の報道はどのようなものであったのか。先に引用した世論調査に関する記事からは、一般に社会における「絆」は弱まったと思っていたが、震災によって「絆」というものを実感できた、というニュアンスを受け取ることができる。つまり、11’において「絆」は、"失われてしまったものを取り戻す" という形で、「絆」の再確認・強化のために用いられていたのである。「絆」という言葉をナショナリズムから分析する場合、この95’との差異は注目に値する。


  (b) 政治家による「意図的な操作・誘導」は存在する?

 では、本田のいうように、「政治家やマスメディアのなかで、国民の間にナショナリズムを鼓舞し、それを利用する動き」は存在しているのだろうか。それが今回の「絆」という言葉のブームにも当てはまるのだろうか。「絆」がナショナリズムに直結するかどうかは本報告の主旨なので、ここでは結論できない。しかし、政治家が「絆」を利用しようとする動きは確かに存在している。そのことは疑い得ない。詳細に記述すると長くなるため、ここでは産経ニュースの記事を引用するに留めておく。〔永田町は「絆」のオンパレード 首相も民主離党組も絆、絆…〕と見出しがついた記事だ (なお、産経新聞が当時このような記事を書いていたこと自体が興味深い。産経新聞にとって「絆」連呼はナショナリズム風化の証だったのだろうか。それと民主党への批判はどのように結びついていたのだろうか)。

 いまや永田町は「絆」という言葉を掲げてさえいれば、自らの言動を正当化できるとする風潮がはびこっているようだ。どの政治家がどういう場面で「絆」という言葉を使っているのか、じっくり見てみたい。(…)
 昨年末に民主党に離党届を出した内山晃衆院議員ら9人は4日、総務省に「新党きづな」の結成を届け出た。同日の記者会見で内山氏は政党名の理由についてこう語った。「国民との約束を守ることは国民との絆を守ることに通じる。すべての国民と絆を大切にし、震災復興、デフレ脱却、内需拡大、円高解消などを全力で取り組む決意だ!」(…)
 もっとも、「絆」好きという点では野田佳彦首相も負けていない。訪問先の三重県伊勢市内で記者団から「新党きづな」の結党について質問された首相はこう答えた。「考えてみると、メンバーを見ると、私が公認決定に深く関わった人や、何回も応援に行った人、だれも弁士がいないときに泣きつかれて行った人とかいますが、そういう絆が薄かったのかなと思いますね」(…)
「絆」は外交面でもキーワードになり得たようだ。玄葉光一郎外相は4日の記者会見でこう語った。「昨年は東日本大震災を機に、世界との絆の重要性が再認識された年でもあった。国益の最大化のためにはアジア太平洋地域に開放的かつ多層的なネットワークを作ることが必要だ。日米同盟を深化させつつ、日米中の戦略的な対話も提唱してきた…」(…)
そういえば、自民党の谷垣禎一総裁も平成21年9月の党総裁選の際、出馬表明で「地域社会、家庭の絆を柱に保守政治の王道を歩みたい」と決意を語り、「絆」をキャッチコピーに掲げていた。(…)
(2012/1/8 産経ニュース 〔永田町は「絆」のオンパレード 首相も民主離党組も絆、絆…〕)


 まず、① 政治の場でこれほど「絆」という言葉が使用されるという事態は、震災前から考えると異常である。このことは指摘できる。また、② 「絆」という言葉の乱発には震災の影響があったはずだが、政治家が使う「絆」は、震災と全く結びつかないものが含まれつつある (「新党きづな」など)。

 

  (c) 「絆」報道と「屈託のなさ」

 さて、「絆」報道について、ここまでで以下のような流れがあったことが明らかになった。

① 震災前から「絆」という言葉の重要性が高まっていた。
② 震災後、「絆」は失われたものが復活した、実は失われていなかったというニュアンスで報道された ([創出ではなく]復活・強化・再確認)。
③ 「絆」という言葉への可能性や危惧を論じる記事が幾つか現れた。また、それに対する反論などが現れ、「絆」とナショナリズムについて語りうる議論の場が形成された。
④ 震災からある程度時間が過ぎて、政治の場で「絆」という言葉が多く使われるようになった。
⑤ 政治の場で使われる「絆」という言葉は、震災と結びつかないものも多くなりつつある。

 

 ここで、政治の場における「絆」という言葉の使用に触れておきたい。

 政治の場で使われる「絆」という言葉は、香山がいう「屈託のなさ」と重なる部分を持ってはいないだろうか。香山はワールドカップで振られる日本の旗を、「識別マーク」として振っているだけだという。「記号論者なら、記号象徴「日の丸」が記号内容「日本国」といったん切り離された上で、別の記号内容「日本代表チーム」と結び付けられた、と言うかもしれない」。

 「絆」という言葉も、政治の場では「震災」と切り離され、自身らの党派性を表す言葉やキャッチコピーとして用いられた上、「地域社会、家庭の絆を柱に保守政治の王道を歩みたい」といった理念として再び掲げられるようになった (なお、90年代前半までの「絆」報道の少なさは、このように「絆」という言葉を掲げながら自身の政治を語る政治家の少なさを遠回しにではあるが示唆している。政治家が「絆」という言葉を多く用いていたのであれば、報道がそうした政治家の言葉を取り上げることによって、「絆」報道件数の数は先の調査より多くなっていたであろう)。このような傾向が、香山が震災直後に危惧した「内向的」で「根拠のない優越」へと接続される可能性は否めない。果たして「絆」は、震災と切り離され、自由に優越や連帯・保守を語るための道具として記号化されてしまったのだろうか。このことは、次章で「2ちゃんねる」の動向を探った後、4章にて詳しく論じる。




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