「傷つきやすい子ども」という主題の歴史社会学についてのアイディアスケッチ ―― 人々・観念・表象の循環関係


 これまたアイディアスケッチ。2014/6/17に公開。

 続きを書くつもりである程度構想もねっていたが、放置した。

 なんとなく公開。


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Ⅰ 「ありのままの子ども」という概念の分析 ― その主題のなかに存在する要素を分けてみる

 「ありのままの他者」といった考え方それ自体は、人間関係の語り方の典型である (恋愛についての諸言説を想起)。同様に、「ありのままの子ども」という考え方も、論理的には「教育する」という行為・観念が登場すると同時に可能になるものである (〈教育された子ども / ありのままの子ども〉)。したがってその言説は、ルソー『エミール』を引くまでもなく、幾度と繰り返されてきたものであったと推測されよう。

 ただし、西欧においてそうした言説はかなりの程度「啓蒙とは何か?」という問いと結びついていたように見える。(*ここ、まだ途中。のちにしっかりと加筆するつもりだが、それは「個人」や「主体」とはなにか?という問いと結びついてきたように見える。)

 翻って戦後日本の若者言説を見てみると、「ありのままの子ども」という観念は、「傷つきやすい子ども」という観念と結びついていることがわかる。すると、ここで問いが生まれる。果たしてなぜそうした関連が形成されたのか (即ち、なぜそのように語られ、他のようには語られなかったのか) 。


Ⅱ 実態と観念の関係―諸要素が織りなす複雑な網の目を描き出すこと

 さて、以上の問いを完全に追求するのはあまりにも荷が重い。そこで本論考ではさらに問いを絞って、どのようにしてそうした見方が〈「常識」=意識されない前提〉になったのかを明らかにすることにする。それを明らかにする作業は困難を極めるだろう。ある考え方が意識されない前提になるためには、その考え方が広範に網の目のように社会を覆っていること、その網の目の成立過程が一個人には見通せないほど複雑であることが必要である。知らない内に自分がその網の目に参与していて、しかもその網の目の全体像も出自も見通し難いようなもの。それが「常識」である。

 さて、見通せないほど複雑なものが常識であるとするなら、それに見通しを与えるための試みもまた常に錯綜することになるだろう。同時に、その作業にはある種の簡略化・単純化が伴ってしまう。したがって、本論では、決してそうした網の目の全体を見ようとは考えない。網の目の一部を描き出し、それがどのような形で織り成されているのかを観察し、ある考え方が構築されていく過程の一端を明らかにする。そのなかで〈ある考え方が社会に広まっていく〉ということについての気付きを得て、それによって我々の思考の前提や、我々が我々自身を解釈するための前提となる事柄について疑っていく。

 風呂敷を広げるのはここまでにして、具体的な話に入ろう。果たして、複雑な網の目の一端を、我々はどのように解きほぐしていくのだろうか。本論考は、以下の構成に沿ってそれを記述していくことにする。


 1 〈解釈の枠組み〉の形成

 最初に、ある解釈枠組みが形成される。本論考では、1970年代前後に輸入されたある4人の学者の諸研究をその枠組みとして提示しておく。その内の1人にして「傷つきやすい子ども」若者論の祖ともいえる人物が、誰あろうエリクソンである。我々は今日あらゆる事柄を「アイデンティティ」という観念を参照しながら語る。それはあまりに日常的な言葉になっていて、人々の語りを見ているとまるで「アイデンティティ」という実態がどこかにあるのではないかとおもえるほどだ。しかし、そもそもその言葉を広めたのは、周知のとおりエリクソンであった。そしていうまでもないことだが、「アイデンティティ」という観念がまだ存在しなかったときに、我々は自身/他者の「アイデンティティ」について語ることはできない。詳しくは後述するとして、とりあえず70年代前後に解釈枠組みが完成し、我々はそれを度々参照しながらさまざまな言説を織り成しているということをおさえておきたい。


 2. 〈解釈の実践〉:〈解釈の枠組み〉と〈出来事〉を資源とした解釈

 すると次に論じるべきなのは、解釈の実践である。ある出来事がその枠組みに沿ってどのように解釈されたのか。解釈の実践を論じるにあたって先におさえておくべきなのは、〈出来事〉とそれを〈解釈する枠組み〉と〈解釈の結果〉はそれぞれ異なる要素であるということだ。繰り返しになるが、「アイデンティティ」という観念がまだなかったときには、我々はある〈出来事〉を「アイデンティティ形成に失敗した若者の犯罪」として記述することはできない。ここから、〈出来事〉と〈解釈する枠組み〉は異なるものであるということができる。また、〈解釈の結果〉も〈出来事〉〈解釈する枠組み〉とは異なる。たとえば、純粋にある〈出来事〉を参照する場合 (「昔、神戸連続児童殺傷事件というものがありまして・・・」) と、ある〈解釈の結果〉を参照する場合 (「アイデンティティといえば、酒鬼薔薇事件、そういうのもありましたね・・・」) とでは参照されているものが異なる。また、〈解釈の結果〉をいくつも集めたところで、エリクソンの元々のアイデンティティ論 (解釈の枠組みそのもの) が浮かび上がってくるわけではない。

 以上のように〈解釈の実践〉は、〈解釈される出来事〉〈解釈する枠組み〉〈解釈の結果〉の要素に便宜上分けることができるだろう。ここで “便宜上” としたのは、実際にはそれらの要素は相互作用しているためである。たとえばある〈出来事〉は、ある〈解釈の枠組み〉が存在したために可能になったのかもしれない (「ぼくはアイデンティティを得られない子どもなんだ・・・」という気持ちが犯罪へと人を駆り立てるかもしれない )。あるいは、ある〈出来事〉の説明には、既存の〈解釈枠組み〉が援用されたりもする (動機の語彙)。すると、ある〈出来事〉や、犯人による〈出来事〉の供述それ自体が、〈解釈の結果〉であるという側面があるということになる。また、そうした犯人の〈解釈の結果〉が、〈解釈枠組み〉を変更させていくことも当然考えうる (「最近、犯人が『誰でもよかった』といって人を殺すことが増えていますが、そういう事件について考えるときに、若い人のアイデンティティの形式が昔とくらべて変容しているように思えるんですよ・・・」)。そのようにして変更された〈解釈の枠組み〉が新たな〈出来事〉や〈解釈の結果〉を生み出していく・・・・・・。これが、〈出来事〉〈解釈する枠組み〉〈解釈の結果〉の相互作用である。

 いずれにせよ、ここまで扱ってきた〈解釈の実践〉は、ある〈解釈枠組み〉と〈出来事〉を資源とした解釈であった。すなわち、エリクソンの「アイデンティティ」という言葉を参照・利用しながら、ある〈出来事〉について、ある〈解釈の結果〉を算出するものであった。したがって、ここで対象となるのはある出来事 (永山則夫連続射殺事件、神戸連続児童殺傷事件、秋葉原通り魔事件・・・) についての言説である。


 3. 〈解釈の実践〉: 言説を資源とした解釈

 ここにもう一つ、言説を資源にした解釈という冗長な過程をつけ加えておくことにする。

 これは言説 (ある解釈の結果) が言説 (ある解釈の結果) を生み出していくような解釈実践である。先に〈出来事〉を参照する場合と〈解釈の結果〉を参照する場合は、それぞれ異なるものだと考えるべきだと述べた。すると、〈解釈の結果〉を参照しながらある〈解釈の結果〉を生み出していくような自己言及的なパターンは、これとはまた異なるものとして扱うべきだろう。こうした自己言及はただ同じ言説をくり返すだけの状況を生み場合 (「アイデンティティといえばいろんな凶悪犯罪があるでしょ、ああいうのが今の若者状況を如実にあらわしていて・・・」と若者犯罪が減っているにもかかわらずくり返すような場合) もあれば、前の〈解釈の結果〉をふまえてそれを発展させる場合もある (言説内発展)。


 4. 言説と表象の循環関係

 最後に、とくに本論考が重視したいのが、言説と表象の循環関係についてである。

 ある〈解釈の枠組み〉を用いた〈解釈の結果〉が、表象されることがある (たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』はレインの枠組みを用いて若者を解釈しながら、若者を表象した側面がある)[無論、この表象もまた、言説の一つであり、解釈の結果の一つなので、ここで使用している区別は便宜的なものでしかない]。そして、奇妙なことに、そうして表象されたものが、まるで若者を写しだした鏡であるかのように扱われていく場合がある (「『エヴァ』はいまの若者の状況を如実にあらわしている!」)。更に奇妙なことには、もとから〈解釈の枠組み〉を利用した〈解釈の結果〉であったはずの表象が、もう一度〈解釈の枠組み〉を通して〈解釈〉され言説となるようなことまである (「アイデンティティ論から『エヴァ』を読み解く!」「『エヴァ』は現在の若者のアイデンティティのあり方を如実にあらわしている!」)。さらに、そうした言説を参照しながら、また表象が作られる (『エヴァ』に関わる言説を意識していたであろう『輪るピングドラム』のように)。そしてそれがまた社会を表すものとして流通していく…… (「輪るピングドラムで描かれる若者像は現代の社会を…」)。

 ここには、言説が表象を生み、その表象が新たな言説を生み、そしてその言説が新たな表象を産むといった循環関係がある。これは奇妙だ。それぞれが社会の「実態」について語っているようで、実のところ「表象」や「言説」から抜け出せていない。結局のところ〈言説と表象の循環関係〉とは、前節で扱った〈〈解釈の結果〉を参照した〈解釈〉〉の一つのヴァリエーションなのである。そして90年代の若者論≒サブカルチャー論は、そうした〈解釈〉を大量に生み出してきた。


 5. 人々についての観念と、人々の実態の循環関係

 さて、以上が複雑な関係性についての、(これでもかなり単純化した) 見取り図である。

 最後にもう一つ、本論に入るまえに重要な側面を指摘しておこう。本論考では、「傷つきやすい子ども」という考え方の構築を扱うと述べた。しかし、ここで視野に入れられているのは、ただ考え方 (観念) が構築されていくという側面だけではない。

 ある観念と人々の実態は、互いに互いを参照しながら、やはり循環関係を描き出す。「常識」は、ただの考え方というわけではなく、自分/他人にある行動を求める道徳としての側面をもつ、といえばわかりやすいだろうか (「常識的に考えて~はないよね」)。そしてまた、人々の行為はただ「常識」に影響を受けるだけではなく、当然「常識」に影響を与えつつ「常識」を書き換えていく。

 本論考はある考え方が「常識」となるまでを描くと述べた。だが、「常識」を描くためにはこうした循環関係までもを視野に入れる必要がある。そこまでを含めて、これは網の目なのである。あらゆる要素が絡まり合って、「常識」だけではなく「人間」や「出来事」が形成されていく。網の目を記述するとは、その相互作用の複雑さを描き出すということである。

 




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