非対称性の議論に関するメモ

デイヴィッド・ベネターという人の「誕生害悪論(いわゆる反出生主義)」の中軸に「非対称性の議論」なるものがあり、その展開の一部を拡大すると奇妙な問題があるという話をたまに人にするのだが、どうやら口頭で伝えることは難しそうなのでメモしておきたい。まず、その議論自体を知らないという人にはこのサイトなどで概略を掴んでほしい。
ちなみに、ベネターの議論自体は(消極的功利主義の立場によって正当化されうるため)問題にしない。




(消極的功利主義に基づく反出生主義の)非対称性の議論は上の図のように四つの要素からなる。

①苦痛が生じるのは悪い。
②快楽が生じるのは良い。
③苦痛が生じないのは、そのことの良さを享受する人が誰もいないとしても良いことである。
④ 快楽が生じないのは、すでに存在する誰かの快楽が奪われているのでない限り、悪くない。

①②はまずごく一般的な功利主義の立場であり、ここではそのこと自体を問題にしない。
問題はもちろん③「苦痛が生じないのは、そのことの良さを享受する人が誰もいないとしても良いことである」からなので、ここから考えてみたい。

まずは③を正当化してみよう。たとえば、私が多額の借金を抱えて返済の見込みがなく、債権者に「おまえに今後もし子供(Aと名付けよう)が生まれた場合、その子を奴隷として引き取り、一生涯酷使するだろう」と宣言され、ご丁寧に契約まで交わしてしまったとする。 もし子供が生まれてしまった場合、その子は確実に不幸になるであろうと考えた私は、「生涯子供を持たない」という倫理的判断を下す。 さて、この判断は全く意味不明だろうか。恐らく、この話を聞いて「まさに存在していない主体の苦痛が回避されたからといって、その主体は存在しないのだからそこにいかなる倫理的な価値も生じないだろう」と不合理を訴える人間は、そうそういないであろう(多くの人は、このことの倫理的な意味を理解する)。このとき私は、まだ存在していないその子供を可能的な存在として仮定し、その子が生まれた場合と生まれなかった場合との対比を構想して後者の世界のほうが道徳的(功利的)に望ましいと考えた(※)のである。
私がそのように考えて生涯子供を持たなかったとしても、「そのことの良さを享受する主体が〈現に〉存在しない」という事実は揺るぎないのだが、「もしAが生まれていれば…」という可能的な事態との対比において道徳的な判断が可能になったのだ。これは図の上段(1)と(3)との対比に対応する。まずはこの③の議論を受け入れるとしよう。

※ただしこの想定をする以上、Aは存在する/存在しないという巨大な差異にも関わらず同一の存在者とみなされざるを得ない。Aが存在する可能世界と存在しない可能世界を跨いで、Aは同じAでなければならない。


さて、ここまでをよいとしても、問題は④である。③では苦痛の存在を前提とするために「生まれてくれば必ず不幸(奴隷)になる可能的な存在」としてAを仮定したが、こんどは逆に「生まれてくれば間違いなく確実に幸福に(快に満ちて)生きるであろうような存在」としてAを仮定してみよう。さて、このような可能的Aが存在しなかった(存在を回避された)とき、そのことは「悪い」だろうか。悪くない。なぜなら、そのAはまさに仮定によって存在が回避された(存在しない)からだ。存在しないものの持つ肯定的価値(快楽)がなくなったとしても、それは端的に存在しないのだから、だれのどんな損失にもならない。たしかにシナリオ②ではAの快楽が生じないが、すでに存在する誰かの快楽が奪われているわけではないので、悪くない。
さて、私がこのように主張したとしよう(ベネターが議論しているわけではないので、念のため)。あなたはそれに納得できるであろうか。もちろんできないだろう。議論③における(1)(3)の対比が、存在する/しないという巨大な差異を含んでAという人物を想定することで可能だったように、議論④においてもその対比は存在する/しないという巨大な差異を含んで(それでも)Aという同一人物を想定しなければ不可能だからだ。つまり、(4)の存在しなかった場合のAというのは、ただ端的に存在しない人(いわば空-的存在)ではなく、(2)のAがもし存在しなかったら、という対比においてはじめて可能になった否定的概念(いわば無-的存在)である。「幸福に生きるはずだったAが存在しない」という可能世界は、そのAが存在するという可能世界の否定である以上、概念的に後者と切り離すことができない。だから、「幸福に生きるはずだったAが存在しない」世界は、幸福の不在がもし悪いことであるなら、(複数の可能世界を跨いで価値評価をする以上)悪いことであらざるを得ない。したがって、この議論(存在しない主体の損失はその主体が存在しないゆえに無効である)を取る場合には(2)と(4)は非対称なのではなく、対比不可能なのである。

このことは逆方向にも言える。(4)のように存在しないこともあり得たA(2)は、ある日、両親からこのように告げられる。私たち両親は反出生主義者であり、おまえはあるいは生まれなかったかもしれないのだが、手違いで生まれてしまったので育てていると。それでも生まれてしまったAはたまたま両親にも愛され、幸福に暮らしていたので「ああ、僕は存在していてよかったなあ。」と思う。
これが(2)快楽が生じるのは良いの想定が可能になる場面である。しかし私は④と同様の論理によってこう言う、「この想定では現にAが生まれているのですよね。ということは、『もしかしたら存在しなかったかもしれないA』というのは…つまり『存在しないA』はまさにこの仮定から、存在しないわけですよね。だって、Aは存在しているんだから。ということは、現にAが存在しているいま、そこに『快楽が生じるのは良い』なんていえるための対比項としての『存在しないA』なんて、いないんですよ。つまり、(2)の功利的な評価は〇じゃなくて△でなければならない。」
④の議論がどこで誤ったのかはもう分かるだろう。(2)と(4)の対比は、Aが「可能的に存在する」「可能的に存在しない」という、どちらの可能世界も平等に見渡す視点から初めて可能になったものである。だから、その仮定の一方の内部に立って(一方に現実性を付与して)、「この仮定では現にAは存在を回避されたのだから、現に存在しないそのAの幸福の損失もまた存在しない」とは言えない。④では、③の議論を辛うじて成り立たせていた「可能世界を平等に見渡す構造」が崩れてしまっている。



殺人は功利的に悪いか?


ついでに、上の④の議論は、「殺人の悪さ」の一部分を無効にしうるのでその論旨を追ってみよう。

あるとき、幸福に暮らしていたAが殺害される。この思考実験では、Aは殺害によってまったく苦痛や恐怖を感じることがなく、またAの親類や知人の悲しみ、Aの務める海運会社の同僚の迷惑等、Aの死によって副次的に発生しうるどんな種類の苦痛もなかったものとしよう。唯一の問題は、Aがもしそこで殺害されていなければ存在したであろうあらゆる幸福の可能性がそこで絶たれてしまったということに限られる。
裁判では「犯人は可能的に存在していた未来のAの幸福を奪った」と糾弾される。ところが名うての弁護士が現れて、「被害者は気の毒ではありましたが〇月×日に〈現に〉殺害されています。現に殺害されているということなのですから、もし殺害されていなかった場合に存在し得たAの〈〇月×日以降の幸福〉などというものは、〈端的に〉存在しないことになります。したがって、被告が奪った被害者Aの〈可能的な未来の幸福〉などというものは存在せず、功利的な損失はいっさい存在しないということになります。」
殺人犯は無罪になった。

この思考実験のような世界であっても、そうはならないだろう。この場合の殺人の害悪の功利換算は、上で「私は生まれてこなかったかもしれない」と想定したAの場合と同様に、まずは実現している事態の現実性を括弧に入れて、「殺されなかったかもしれない」という想定と平等に対比しなければ捉えられない。その想定によってはじめて、「Aが殺されなければあり得た未来の幸福」のようなものがそこで奪われたという世界像が現れるからだ。
このような想定では―――たとえば上の「現に生まれてきたA」が「生まれなかったA」と対比しているのは、「現に生まれた現実のA」ではなく実は(この想定が与える意味において)「可能的に生まれたA」なのである。「現に殺害されたAの未来」なら、「可能的に殺害されなかったAの未来」と対比されるのは実は(この想定が与える意味において)「可能的に殺害されたAの未来」なのである。「奴隷になるはずだったが生まれなかった子供」は、〈端的に〉存在しないが、「概念的に」存在するがゆえに(※2)、「奴隷になるはずだったし生まれてきた可能的な子供」と対比される。というか、少なくともそうしなければこの種の対比はそもそも成り立たない。
というわけで、複数の可能世界を跨ぐ功利換算については(もしそういうことがしたいのであれば)、〈現実の現実性〉ではなく、〈可能的な現実性〉のみを問題にしなければならない。


最後に、※2の「概念的に存在する」について上述の空-的存在と無-的存在という対比をもとに補足。
奴隷になる予定の子供を持ってしまった場合、その子供は端的に実在する。
奴隷になる予定の子供を回避した場合、その子供は端的に実在しない。
しかし、「端的に実在しない」場合でも、その「奴隷になるはずだったが生まれなかった子供」は概念的に存在する(そうでなければその子が回避されたというその事実が捉えられないから)。要するに、この子供は単なる「存在しないもの(空-的存在)」ではなく、「奴隷になるはずだった子供、そして存在しない(無-的存在)」である。無に属するものは、存在しないものであるにも関わらず、性質を持っている。ないものにも種類があるのだ。
「おまえは生まれなかったかもしれないよ」と言われたAは、A=私が存在しない世界を仮想することができるのだが、その仮想世界には既にして「不在のA」が存在する。二つの世界をX、Yとすると、その双方を(存在と不在という巨大な差異を跨いで)「可能的なA」が包んでいる。あるものは可能的になく、ないものは可能的にあるのでなければならない。

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