映画版『82年生まれ、キム・ジヨン』、原作ファンが感じた「絶望」と「希望」
※この記事は『82年生まれ、キム・ジヨン』の小説版の映画版の内容に触れています。未読・未視聴の方はご注意ください。
韓国でミリオンセラーの大ヒットを記録した『82年生まれ、キム・ジヨン』は、主人公キム・ジヨンの半生を通して、女性が日常的に直面する数々の絶望を描き出し、読者の共感を呼んだフェミニズム小説である。
2018年12月に日本語訳が出版されてからは、日本の女性たちにとっても、自分の苦しみを代弁してくれる大事な作品になった。
映画化が決まってからも、原作読者の多くは公開を楽しみにしていたと思う。しかし、公開日が近づき映画ポスターのデザインや予告編が発表されてからは、不安の声も多く聞こえるようになった。
原作読者に不安を抱かせたのはなんだったのか?
ポスターに書かれたキャッチコピーはこうだ。
「共感と絶望から希望が生まれた」「大丈夫、あなたは一人じゃない」
まっすぐに前を向いているキム・ジヨン役チョン・ユミの横には、優しげな表情で彼女を見つめる、夫役コン・ユの姿が。
原作で描かれた絶望とは、遠くかけ離れた明るい印象のポスターデザインに、驚き不安になった人はかなり多かったと思う。そもそも原作では、男性登場人物たちの存在はあえて透明化されているのだが、微笑むコン・ユの存在感にも疑問を抱いた。
また、予告編では「どうして気づけなかったんだろう、彼女の苦しみに」というナレーションが流れ、妻の変化に心配そうな表情を見せるコン・ユの姿が映し出される。情感たっぷりに「君は時々別人になる」と告げる彼の演技を見ていると、どんどん不安になってくる。
原作を読まずにポスターや予告編を初めて見た人は『82年生まれ、キム・ジヨン』を、「人生に疲れた妻を支える優しい夫の感動ストーリー」だと勘違いするのではないか。というか、まさかそういう方向性の映画になっていたらどうしよう……。
原作に登場する男性たちが持っていた女性への自覚的・無自覚的な加害性が、映画では薄められているのではないか、ただただ夫婦二人の困難と成長が描かれたヒューマンドラマになっているのではないか……という一抹の不安が、原作読者の間に漂った。
その心配は杞憂だったとも言えるし、当たっていたとも言える。人によってかなり解釈の分かれる作品だったことは間違いない。
映画版『82年生まれ、キム・ジヨン』は、原作とどう違い、どこが共通していたのかについて考えてみる。
男性たちは「悪」ではないが理解者でもない
ポスターや予告編を見た人たちの不安を煽っていたのは、やはりコン・ユが演じた「キム・ジヨンの夫、チョン・デヒョン」の存在だ。原作よりもずっと優しそうで、理解のある男性として描かれているように見えたからである。
しかし映画を見たあとに原作を読み直した印象で言うと、チョン・デヒョン氏のキャラ造形は映画と原作でそれほど変わらなかった。
一見「良い夫」に見えるけれど、それでもジヨンの気持ちは全く理解しておらず、悪気なく無神経なことを言う。ジヨンのためを想って行動しているように見えて、自分の意見を通そうとしているだけの場面もある。
以下の監督インタビューでも指摘されているが、デヒョンが優しい夫に見えるのは、コン・ユが持つ優しい雰囲気や演技によるものが大きく、言動についてよく思い返してみると、絶望感は薄まっていなかったと思う。
『82年生まれ、キム・ジヨン』監督が夫を「優しい人」に描いた理由(現代ビジネス)
むしろ、これほど世間的には優しくて「良い夫」に見える人でも、女性の苦しみを本当に理解することができず、余計に苦しませてしまう……という辛さを実感させられる仕上がりになっていた。
ところで、デヒョンのキャラクター造形よりもっと意識的に変更を加えているなと思ったのは、ジヨンの父や弟など、その他の男性登場人物の方である。
原作ではデヒョン以外の男性登場人物の名前は全く出てこない。ジヨンの父や弟だけでなく、昔の彼氏や同僚、学校の先生や同級生も、男性は誰一人として固有名詞で呼ばれることはない。
しかしそれは、物語の中でしばしば女性が、取るに足らない存在として扱われ、重要な役割を与えられてこなかったことに対する、ミラーリングと読み取れる。不平等な扱いへの怒りが感じられる、原作の大事な一要素でもある。
一方映画版ではジヨンの父にも弟にも名前が与えられ、男性は「対話可能な他者」としてちゃんと人間扱いされている。父親がジヨン用の漢方薬を調合してもらうために電話をかけるシーンや、弟がジヨンの名前が入り万年筆をプレゼントするシーンは、「男性も話せば考え方を変えてくれることもある」という可能性を提示しているように思える。
男性を敵として描かない。男女の対立を煽らない。そんな意図が感じられる改変である。
実は原作にも「でもね、世の中にはいい男の人の方が多いのよ」というセリフが登場する。バスで偶然出会ったジヨンを不審人物から救ってくれた女性のセリフだ。男性不信になりかけたジヨンを救ってくれたのは、彼女の言葉だった。
実は、男性たちの描写に関しては、原作と映画の伝えたいメッセージは、そう違っていないのかもしれない。
ただ、映画版では父や弟がジヨンと和解しようと思って行動した結果、ジヨンの好きなクリームパンではなく、あんパンを買ってきてしまうというオチも付く。
男性たちは歩み寄ってくれないわけではないが、やはり女性の気持ちを理解できているわけでもないのである。ちょっとずつ努力して変わっていってくれるのを期待するしかない……。
ちなみに、原作で衝撃を呼んだラストの精神科医の下りがカットになり、精神科医が女性に変わったのも、男性登場人物に名前が与えられたのと同じ理由だと思う。男性に対する過剰な不信感を煽らないこと。
人によって感じ方は変わるかもしれないが、私はこの改変にポジティブな印象を受けた。
映画版で描かれた「希望」とは何だったのか
ところで、ポスターや予告編では「希望」という言葉がすごく強調されていたが、この映画を見て私が希望を感じたのは、原作でも描かれた女性たちとの連帯に関するシーンの数々である。
ジヨンは「女だから」という理由で夢を諦めた母に共感し、自分の意思を貫いた姉に勇気をもらい、女性の同僚や上司と社会を生きる上での苦しみを共有する。時には見知らぬ相手であっても、たとえばバスの中や停留所ですれ違っただけの相手とも、助け合うことができるのだ。
この映画に登場する女性たちは、それぞれ個性的で多様な存在として描かれていて、それだけでも感動してしまう。違う人生を生きてきて、性格も価値観も全く違う女性同士であっても、きっと連帯できる。そのことが絶望だらけの世界を生き抜く希望として描かれているのである。
しかし、おそらくポスターや予告編に掲げられた「希望」は、映画ラストでジヨンが「ママ虫」と呼んだ失礼な相手に反論し、夢だった小説を書き上げて人生が上向きに……というストーリー展開上の希望を指していると思う。
物語として最後に希望を持たせたい気持ちはわかるし、嫌いではない。でも現実の世界は女性にとってまだまだ絶望ばかりで、映画のようにはいかないんだよなあ……という虚しさも感じてしまう。
恐らくこのラストこそが、映画『82年生まれ、キム・ジヨン』の賛否を分けているポイントではないだろうか。
『82年生まれ、キム・ジヨン』が映画になったということ
個人的な解釈としては、映画オリジナルの希望に溢れたラストは、原作小説が大ヒットして多くの女性に共感をもたらし、希望の火を灯すきっかけになった作品であることを表しているのではと考えている。
私たちは『82年生まれ、キム・ジヨン』という一冊の本を通じて連帯の機会をもらい、社会の理不尽に気がついている最中だ。
原作の物語は絶望で終わるが、この作品自体が、そしてこの作品がヒットした事実が、現実の私達に与えた希望はとても大きい。そういった印象を踏まえて、あのラストになったのかなあと思うのである。
原作が出版された2016年当時と比べると、少しずつではあるが、世の中は良くなってきている。まだまだ女性にとっての絶望はなくなっていないが、少なくとも怒りの声を上げることはできるようになった。だから諦めるな、今度は『82年生まれ、キム・ジヨン』が映画になったぞ、希望はあるぞ。
そんな女性たちへのエールが、ラストのキム・ジヨンの姿に込められているのではないだろうか。