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番外:死しても相手を受け入れる

プロレスラー三沢光晴

この選手の名前はプロレスファンではなくても一度は聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

全日本プロレスではプロレス四天王の先頭を走り、退団後は自らプロレスリング・ノアを立ち上げ、常にプロレス界をけん引してきました。

三沢選手は2009年6月13日に、試合中のリングでこの世を去りました。

紹介した記事は三沢選手の最後の試合相手となった斎藤彰俊選手を中心に書かれています。

斎藤選手はこの試合を境目に精神的にも、周囲の目からも苦しめられることになります。

自責の念と周囲からのバッシング

検死の結果、斎藤選手の決めたバックドロップが三沢選手の死の主因ではないことが明らかになっても、自責の念はなくなることはありませんでした。
そして、バッシングも続きました。

プロレスラーの宿命はどんなことがあろうとも試合に出なければならないことです。

三沢選手の死の翌日も試合に出場しなければならないという精神的な地獄

その後も斎藤選手は不安定な精神状態の中でも試合に出続けていましたが、当然ながら葛藤の中でもがき苦しんでいました。

そんなときに三沢選手の遺書が斎藤選手に手渡されます。
以下、記事の抜粋です。

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三沢さんの死から数か月後。
斎藤さんはノアの幹部から1通の手紙を受け取った。
三沢さんの知人が、生前の三沢さんとの会話を思い出しながら書き起こしたという。
手紙によれば、三沢さんは、試合中の不慮の事故で自分が死ぬ状況を想定し、対戦相手への言葉を遺(のこ)していた。
 「本当に申し訳ない 自分を責めるな 俺が悪い」
「これからも、己のプロレスを信じて貫いてくれ」 
何十回、何百回と読み返して、斎藤さんはその言葉を心に染み込ませた。

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当時の三沢選手は社長業と選手の二足のわらじを履いていました。

社長としても忙しく、稽古の時間もあまり取れていなかったと聞きます。

また、今まで蓄積してきた怪我によるダメージもあり、本人も近いうちに死を迎えるであろうことを覚悟していた発言もあったようです。

それでも三沢選手は試合に出続け、そしてリングで散った

ドラマチックではありますが、私はそれを良しとできません。
なぜなら、マスメディアがこの話を美化してしまうから・・・。

人間は神様にはなれません。

そんな偉大な選手が亡くなった影で苦しんだ斎藤選手。
そんな彼にも三沢選手は配慮を忘れていなかったことはなかなかできるものではありません。

三沢選手の人間性がよく出ています。

やっぱり、いい漢だ・・・泣

斎藤選手は三沢選手の言葉を胸に刻み、今も過去と向き合いながらリングに立ち続けています。

彼は三沢選手の意志を受け継いだのです。
苦しみと悲しみをまといながら・・・。

死しても相手を受け入れる

私もこんな生き方をしたいと思いながら記事を読んでいました。

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