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Funky

いわゆる「日本のロック」と称される音楽に感じる胡散臭さや嘘臭さや空疎さを、日常的な日本語で言い表すことに挑戦しておりましたが、“日本語で”に関しては挫折、しかし、もっとシンプルで(わかる人には)わかりやすい表現として、あれら一連の浅い音楽は「ファンキー(funky)でない」、あるいは「ファンキーさがない」、という評価でよいことに気づきました。

そしてしかし今度は、funkyを日本語で正しく説明する、という超難題が目の前に現れます。うーん、弱った。

一応、音の方から説明するとファンキーは、ブルーノートやオフビートで調子外れ音程外れのブルース起源の音を出しつつ、そうやって出したフレーズを、出した直後から、独自のリズムでさらに崩したり、ぼやかしたりする、自然に出てくる修飾音/変形音のテクニックです*。重要なのは、聴衆のカラダとハートが、その変形音にノることで、それにより、音楽をやる側とやられる側の一体感が生まれて維持されます。

*: ですのでこの場合のfunkという語は、「力を抜く」とか「脱力」という意味が近いと思います。‘フリーハンド’でも、やや良いかもしれない。

変形音に対するさらなる変形音となると、そんな音を出しやすいのはエレキギターやサックスなどの人間の肉体感覚と直結したような楽器ですが、ピアノのフレーズでも、正規のメロディー構成音の合間やあとに、半音っぽいブリッジ音を入れていって、擬似的なブルース風変形音を出せます。重要なことを繰り返すと、そうやって演奏中にアドリブで入ってくるリズムや音階の変形に聴衆がカラダでノることが、何よりも重要です。よりリラックスしてノるんです。

そしてそれによって、いわゆるファンキーな音が生まれる。それは、演奏者と聴衆という区別をなくして、両者の一体感を会場全体に生み広げることです。そこに、大きな一つのコミュニティが、共同体が、発生します。もともと黒人にとって音楽は、客と聴取者との二分感覚ではなくて、音によって社会の全体を築くこと、音楽が演者聴者双方の人生を支えます。みんなといっしょの人生とその確認が、とても重要なものとして全員で共有されます。

音楽は全員の人生(life)と生活(life)を支える重要なものです。

そんな生きた音を生み出す工夫が、アドレリブで行われるファンキーフレージングです。崩した音を、さらに瞬間的に崩していきます。それが、演聴の二分がどっかへ行ってしまった演衆一体感の、ベースになります。

白人の音楽であるロックも、黒人音楽に倣い、共同体性の生成と共有が起源にあったはずであります。共同体性が失われる、危険な時代になりつつあるから。ロック音楽(黒人のリズム&ブルース系音楽も)は、時代の危機感から生まれたと思います。

いわゆる「日本のロック」うんぬんは、人生と社会の、そんな真剣感と共有感を最初から欠いています。共同体性をキープする真剣な祭事ではなくて、単なる安っぽい消費者体験。消費財(材)としての音楽体験。個人的には、非常にちゃちい音が聞こえるだけですけど。

人生そのもののように重要な、ファンキーな音楽場生成と共有の体験が、どこにもないと感じます。また、そんなミュージシャンを見つけてくるのも大変です。

日本ではかつて、ブルースでもなんでもないものを、ブルースと呼びました。言葉の基本的な意味が分かってない。「ロック」や「ロール」も、そんな意味不明な日本になりそうです。そんな中でまともだった「日本のパンク」は、運に恵まれなかった。全体の環境が、貧しかったようです。当時は、私の関心自体も、コンピューターの方へずれていってしまったし。あかんかった。

しかしとりあえず、ファンキーという感覚とその重要な意味だけは、何らかの形での再生(再び生きること)が望まれます。インターネットの普及でもって、これまでの単なる聴く消費者が状況を新たに作り出す側にもなれるんだから。希望は十分に持てます。

(写真: サライ.jp
(参考: 時間(タイム)でなく空間(スペース)を創り出すビート(https://youtu.be/uoOH9QCsdQQ))

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