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ししおのつぼやき7 美談に警戒せよ!

 前から思っていたことを国立新美術館の蔡国強展で思い出した。
 蔡のいわきの人々との長く熱く深い交流についてはこの展覧会でも紹介されていて展覧会の一部としてはあってもよかったし、蔡への評価もいわきの人々への敬意も減ずることもないのだが、こういう部分だけ取り上げて「美談」にするのは芸術にとっても社会にとっても有害無益である。
 蔡の作品が爆発に限らずギー・ドゥボールのスペクタクル批判の対象になりそうであることはここでは問わない、ただ蔡の芸術的達成――それはアジア人作家に限らず全世界でも比類のない大成功――の要因は、美術史上誰もやっていないことを研究と智慧と行動力を発揮した彼の野心(悪い意味ではない!)であって、いわきの人との交流とは関係がないということだ。(市美術館の展示でいわき関係を別コーナーにしていたのは見識だ。)ホアン・ヨンピン(黄永砯)にはこのような「美談」がないから蔡より格の落ちるアーティストだということにはならない。たしかに黄の作品は蔡のように誰にでもわかる夢を与えてくれはしなかった。しかし1980年代半ばの「85美術運動」の渦中にいて中国美術の世界への認知を先導したこと、また強烈な(ときにスキャンダラスな)コンセプトでは全アジアぶっちぎりの中国人作家のなかでも、とりわけ伝統と怜悧な批評精神との高度な融合で世界に認知された功績において決して蔡に劣るわけではない。

 どうして芸術的達成と社会的貢献を混同してしまうのだろう?それは後者のほうが、さしたる検証なしに了解され共有され顕彰されるからだ。
 菊畑茂久馬の山本作兵衛の炭坑記録画の評価(世界記憶遺産登録という快挙をなしとげたにせよ)も、戦争画のいちはやくの紹介も、彼の作品とは何の関係もないことだ。
 今では日本で広く公認され支援もされている障碍者アート、エイブル・アートについてもずっと気になっている。そこでは作品の質も独自性も問われることがない。障碍のある人の表現を手放しで礼讃するだけだし、そこに批評が介在したら、炎上するのは目に見えている。「感動ポルノ」という言葉はあるのに、作り手が健常者なら許されるのか? 
 日本人による韓国・朝鮮や台湾の近代美術家の伝記にも、植民地支配や差別や、出身階級差について問題視することなく、日韓(朝)、日台の交流や、家族愛、苦難のあとの美術界への貢献という「美談」に終始してしまうものが目立つ。そこでは世界美術史の観点からの作品の独自性が問題にされることはない。もっともそれをすると日本近代美術の巨匠もほぼ全滅するのだが、ナショナリズム=ナルシシズムを超えた美術史の言説としてはそれを避けるわけにはいかない。

 現代アートに戻れば、ヴェネツィア・ビエンナーレで高く評価され金獅子賞を受賞した、シモーヌ・リーによるアフリカ人女性の巨大な彫刻。https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/venice_biennale_2022_report1

 これを制作・運送・設置・保管するのにかかったお金は数千万円になるだろう。植民地主義、人種差別、女性の抑圧、環境破壊などを問いかけ抗議する作品は1990年代から一般化したが、それを動かしているのも結局今もなお欧米の富と権力を持つコレクターやパトロンではないか。「政治的正しさ」とはそういう人たちむけに既にキュレーターやギャラリーがプロデュースするストーリーでしかない。(美術における「政治的正しさ」の追求自体を難詰しているのではなく、ただどんなに先駆的でオリジナルな仕事も陳腐化され行政と資本主義にとりこまれる運命にあるということだ。)

 以上の例からわかるのは「美談」というものが既存の権力と資本主義制度を隠蔽し、制約された生活世界を一歩も出ることなくありきたりの倫理観を満足させるということで、そこで動くお金で買われるのは「免罪符」でしかないということだ(それも作品によっては主要クライアントである英仏人にしか通用しない)。
 スペクタクルは警戒するべきだが、実はもっとおそろしいのは「美談」のほうだ。理由のひとつは芸術的達成や独自性(これなしには芸術はありえない)の評価を度外視するからだが、より影響力があるのは、それが行政や企業に対して批判どころか検討さえも拒否する政治的正しさを主張するからだ。それは芸術を政治に、そして経済に従属させることに他ならない。
 こういう展覧会を見たり、作品を買ったり、本を読んだりすることが、何もできない自分が人権や地域振興や歴史の負の遺産に向き合うつもりになって自分をかわいがるナルシシズムにすぎないということに気づく契機はまったくない。現体制を維持するためのガス抜きの価値観を超えることは絶対にない「癒し」と大差ない「改良主義」なのだ。あるいは、ディレッタンティズムと同じく差別や貧困から自由なひとたちの趣味にすぎない。
 そんなことにお金使うべきかどうか。税金であれ企業の純利であれ。

 何もできないのは私も同じだが、他に、裏に、向こうに、もっと問いかけ拒否し別の倫理と価値を追求できないかとだけ思ってだらだらしている。

(8/21いったん公開だが完成度低いのであとでまたいじるかも)
(8/27一部改訂)