見出し画像

ししおのつぼやき6 幼児化するアート(終焉したら周縁化・改題)

古い新聞記事を整理していたら「終焉した近代美術史」というタイトルの菊畑茂久馬の記事が見つかった(2005年1月6日 読売新聞朝刊)。「聞き手 小林清人」とあるから、インタビューなのだろうけど、とても話し言葉とは思えない苛烈な文体からして、原稿に菊畑が手を入れているように読める。
これは新春企画らしく「21世紀 世界はどう変わったか」というシリーズの2回目。菊畑は、歴史を引き継いで発展してきた近代の美術史(印象派からポップ・アートまで)が終焉した今は、「絵描きと称される人」も「歴史の所産の中から自分の個性に見合ったものを、脈絡もなくつまみ食いしているだけ。短い個人の一生の中で、前より良くなったとか悪くなったとか言いながら、小さな放物線を描いて死んでいく。」……もしこのとおりにしゃべったのなら、「小さな放物線」なんて表現がすごすぎる。「アーティスト」ではなく「絵描き」というのが菊畑(および他の九州派作家)の制約(というか、こだわり)だし、これだけ読めば単なるポストモダニズム批判のようだが、私が今の視点で気になるのはそのことではない。
 その「近代美術史の終焉」の原因は、グローバル化した世界の、資本の論理による支配だというが、問題はその次に、こう言っていることだ。
「近ごろの美術が幼児化しているのも同じ理由からです。幼児化すればするほど理解の幅は広がるわけですから。そういう所にモチーフを置いて、マスコットのような作品を作って成功している人もいるにはいる。いてもいいが、私には面白くもなんともありません。」
 この記事には「マスコットのような作品」の例と思われる写真が使われているが、誰の作品かは想像できるだろう。
 しかしすでに18年も前の記事なので、今の眼で見ると、事態はさらに大きく変わっている。「幼児化」は美術評論家やキュレーターたちに理論化され正当化され(「ネオテニー」だっけ、2009年に展覧会)、国際的なマーケットで高値をつけるようになった。それがどういう傾向の作品かについては明言するとめんどうくさいことになりそうだから上記の菊畑の表現で代弁してもらうのである。
 ここまでで終わるつもりでしばらく寝かせていたが、ちゃんと考えれば、マスコット作品の流行は、作品売買の市場のことにすぎず、資本主義がここ20年くらいで国際展と芸術祭のスペクタクル化(and/or美術館の博覧会化)を拡大し、それが観客の「幼児化」を生み出すというより大きな問題に気づいた(遅い)。ひたすら人を包み込む空間、キラキラした光や動きや原色、イメージは人体の一部か動物。エロなし。グロなし。韓国なし。歴史なし。老人なし。意味なし。イデオロギーなし。それこそイデオロギーによる洗脳だと思うけど、この傾向が、美術市場よりはるかに多くの観客を「幼児」と想定し、事実「幼児化」することに成功することだ。美術に関心があまりない「中間層」の「理解の幅」を広げるはずのこの傾向の問題は、展覧会(芸術祭を含む)においても、そして国内市場においても、むしろ「層」と「理解」の幅を狭めているのだ。
 でも少数意見を排除しても包含されるほうがはるかに多ければそれでいいのだろう。それが民主主義社会なのだから。
 Meanwhile私が見たいのは「アダルトな革命芸術」である。でも今の日本で見れる美術で「マスコット」「スペクタクル」以外にあるのは、なまぬるい「改良主義」かブルジョアの「免罪符」だけだ。これについてはいつか別に(新ネタあれば)書く。
(6月24日~7月14日)