見返りを求めない人になりたい
元旦に決まらなかった今年の目標が
決まりそうです。
「見返りを求めない人になる」です。
最近とある知り合いがいろんな友達に営業をかけていました。
どっちかと言うと浮き沈みの激しいタイプの知り合いで自分が来て欲しい時だけ返事を返す、あとは無視、みたいな感じの子だとみんな知っていたので、
私一人営業されるままにお店に行ったことで
みんなに「優しいね」と言われることがありました。
別にそれは優しいわけではないと
私は思っていました。
みんなはよく
「裏切られた」というワードを使い
それによって行くか行かないか判断します。
私は今まで
「裏切られた」ということが
ありすぎたからか
いつからか人の行動を当てに
しなくなりました。
その人が約束を破ることで
自分の予定が大きく狂うならば
その人ありきの予定を作った自分が悪い
人と予定を組むなら
それも想定した上で計画する
ということが当たり前になりました。
だから相手の方が
約束を守らなくても
例えば金銭的損失を
最小限にとどめるための計画を
予め組んでいますし
いちいち「たられば」を語ることも
なくなりました。
自分の中でその時間こそ
無駄だと気づいたからです。
だから人に何かを与える時も
お返しがあると思って与えたりすることは
なくなりました。
「お返しがあるはず」という前提では
せっかくお返しがあったとしても
自分の期待以下なら
感謝すら出来なくなるからです。
それってすごく勿体ない。
お返しがあったら
ラッキーぐらいで考えた方が
棚ぼた感覚で素直に喜べます。
冷たいようですが
人間関係の中では過度な期待は
捨てた方がうまくいきます。
何かを与える時の軸を
お返しがあるかないかではなく
お返しがないとして
本当に自分がやりたいかどうかを
考えるべきだと思うのです。
そうすれば自分の本当にやりたいことが
見えてきますし
心穏やかに過ごすことが出来ます。
見返りを求められる贈り物ほど
要らないものはないです。
みんなが我慢してるから我慢しなさい
も違うと思うのです。
そこに自分本位がなければ
そうしない人を許せなくなります。
本来人は自由なはずなのに
そんなくだらない「べき」に
がんじがらめにされて
不機嫌になっても
それは大人だとは言えません。
みんながやっているから「やる」
見返りが期待できそうだから「やる」
ではなく
みんながやっていなくても「やる」
見返りが期待できなくても「やる」
それが私の中のかっこいい大人の姿かなと思います。
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