あの日の陽だまり

その日も、少女はその場所に居た。

その部屋にある物は、壁一面を覆うほどの巨大な棚。
その棚には、歴史書、学術書、叙事詩…様々な種類の書物が隙間なく並べられている。それはこの棚一つだけではない。磨き抜かれた石造りの床には、同じ棚が幾重にも延々と並ぶ。納められた書物の価値からか、周囲はやや重苦しくも静謐な空気に満たされていた。

そこは、誰もが立ち入れる部屋ではない。
王に召し上げられた学者か、城に住まう高貴な身分の者でなければ入室を許されない、知識の宝物庫。

王城の書庫。

その書棚の間に、1人の少女が居る。
夜の帳に似た黒い肌と髪を持ち、頭からは兎の耳が伸びている。その耳を除けば身長は1mにも届かない程小柄な、"人ではない"少女だ。数えで6にも届かない齢であろう少女は、月の光に似た金色の瞳でそびえる書棚を見つめている。
ふいに、少女の近くを年老いた学者が通りがかり、その足音に少女の長い耳が揺れた。足音の方へ振り向いた少女は学者の姿を見るや遥か頭上、本棚の一点を細い指で指示す。

「ごめんください。あの本が読みたいの。取っていただけるかしら。」

声をかけられた学者は、眉間に深く刻まれた皺から気難しさを滲ませつつ、周りからそう見られる事を憚ることも無い老人だった。だが、老学者は少女の姿を視界に捉えると、口元に笑みを浮かべて歩み寄ってくる。そして、少女が指し示す先に目を向けると感心したように口を開いた。

「ほう、もう次の巻をお読みになりますか、クロリク様…本当に勤勉であらせられる」

「ありがとう存じます。この時代のお話はとても面白いの…もしも分からない言葉があったら、また教えていただけるかしら」

老学者が本棚から取り出したのは、歴史書だった。その本を受け取り、クロリクと呼ばれた兎耳の少女は恭しく頭を下げる。
アクイレジーナ・チェルナノギ・クロリク、それが少女の名前だ。
少女の申し出に、老学者は微笑みを浮かべて頷く。ここにある書物は全て、国の知識と文化の粋を集めた物だ。年端も行かない少女が読むような本では無いが、その表情には少女に対する信頼があった。この少女なら、問題なくその本を読める…そう確信したうえで、国の宝である書物を少女に渡したのだ。

本を受け取った少女は、光が差し込む窓辺で受け取った本を開く。書いてある内容は千年を超えるほど昔の、この国の歴史。まだ義勇詩人などを通じて口伝で伝えられることすらあった時代の、人々が残した営みの記録だ。少女にとって、それは知らない情景を想像できる手段の一つだ。
この王城の外の世界、塔から見える範囲よりも更に遠くに、実際にある場所。そして少女が産まれる前から続いている、少女が知らない人々の生活。それに触れられる気がするから、アクイレジーナは歴史書を読むのが好きだった。
もっと知りたい、想像したい、どんどん未来へ読み進めれば…いつかきっと…
そこで、読んでいる文字を辿っていた少女の指が止まる。指の先には、まだ意味を知らない単語があった。

「……あの…」

読んでいた本から顔を上げて、先ほどの老学者が居たあたりに視線を向ける。しかし既にその学者の姿は無かった。
本棚の間にその姿を探して、アクイレジーナは視界を巡らせる。

「………………」

そして見つけられず、困惑の表情のまま本に視線を戻す。名前を知らないから、呼ぶことが出来なかった。
この城で過ごしている人々は誰しもが少女の名前を知っている。かつて存在し、既に滅んだ国、クロリアークの最後の皇女。
そんな肩書を持つ少女に積極的に関りを持つ者は少ない。
そしてそれは少女も同じことであり、逆に少女は相手のことを知らなかった。

城の中で己が浮いている事に気づいたのは、4歳になる頃だった。
身の回りの世話をするメイドや、城の警備を任されている兵たちの視線から感じる違和感。
大事にしてもらっているけれど、暖かみが無い感覚。
それが普通のことではなく、『よそよそしい』と呼ばれる対応なのだと知ったのがその頃だった。
その対応の理由については知ろうと思えばすぐに分かった。その辺に居る大人に質問を投げかければ、凄く困った表情をした後に全てを教えてくれたからだ。自らに父親も母親も居ない理由についても、その時に知った。
そしてアクイレジーナは、質問に応えてくれた相手を困らせてしまった事を悔やんだ。
それまでにメイドや兵が己を見る時の目も同じだったのだ。誰もが扱いに困る子供。
それがアクイレジーナ…己だと分かってしまったら、それ以上を求められなくなった。
周りの人達を、日頃から大切にしてくれた人達をこれ以上困らせたくはない。
書庫に通って本を読んで過ごすようになったのも、その頃からだ。

「………………はぁ…」

小さく、諦めを押し殺した吐息を吐いた。
見える範囲に学者が居れば、単語の意味を教えてもらったかもしれない。でも、またあの困った目を見るのは嫌だった。
だから分からない単語を読み飛ばし、それ以降の文から意味を推し量る事にして読み進めようとして…

「それは『兎の脚を使ったお守り』だよ」

「え…」

突然、明るく弾むような、それでいて少しこもった声がかけられた。
あまりに驚きすぎて、窓の外から声をかけられたと気付くまでに時間がかかったほどだ。
驚きで見開いた目をアクイレジーナが窓の外に向けると、そこに居たのは太陽の光のような金色の髪を持つ、快活そうな少年だった。

「なぁ、いつも1人で本を読んでるの気になってるんだ。君ってさ、あれでしょ?獣人の国の王女だろ?」

「……え…誰…?」

その少年は間違いなく初対面だ。少年もこちらの名前も知らないのだから間違いないはず。
なのに、困惑したレジーナの言葉に少年は眉根を寄せてみせる。

「知らないのかよ。この国の王子だぞ」

「え…あっ…!し、失礼いたしました!………王子…?」

王子と言われても、その顔に見覚えは無かった。
ローランド王国の王子は4人、王女は2人居るという事は知っていたが、公の場で見たことがあるのは第一王子と第二王子、そして長女の姫だけだ。2人の王子はまだ20に届くかどうかという歳だったはず、だとすれば目の前に居る少年は…恐らく4人目の王子。

「…なんだよ。疑ってるのか?」

「い、いえ、滅相もありませんわ。えっと…」

「キールだよ。キール・フリードリヒ・フォン・オールシュタイン=ローランド!キールって呼んでくれよ。
 …で、君はアクイレジーナだろ?なぁ…」

少し弾んだ声で話しを続けようとした少年は、二人の間にある窓ガラスに怪訝な表情をした。

「……なぁ、こっち来いよ。このままだと話しにくいからさ。」

「えっと…あの…」

「ほら、そこのカギ開けてよ。君さ、いっつもここで本読んでるじゃん。それもずーっと!ちょっと羨ましいっつーか…ほら、早く!カ・ギ!」

「は、はい…ただいま!」

急かされたことに慌てて窓のカギを外す。そして部屋の中から窓を開けると、しんと静けさに包まれていた部屋に春先の暖かな風が吹き抜け、開いていた本のページをめくる。それだけではなく、書架に収められていたスクロールまでもがいくつか飛ばされて床に落ちた。
風は部屋全体の空気を動かし、書架の向こうににわかに人が動く音がする。アクイレジーナは自分が窓を開けたせいで起きてしまった惨状を見て、サッと顔を青くして固まっている。ここは王城の書庫だ。収められている書物やスクロールには全て、文化財として相当の価値があるはずで…

「おっと、ヤバいかも…ほら」

そんな少女に、少年は手を差し伸べた。

「ほら、誰かが来て怒られる前にさ、こっちに来て話をしよう。」

「え、ちょっと…お待ちください…!」

少女の手を、有無を言わせず少年が掴む。
開いた窓越しに延ばされた手は、少女を春の日差しが差し込む中庭へと引っ張った。あまりに唐突で乱暴ですらある扱いに困惑したまま、アクイレジーナは窓枠を無理やり乗り越えさせられる。

「お待ちになってキール様。ちゃんと謝らないと…!」

「キールでいいって、様は無し。俺も君の事をジーナって呼ぶからさ。良いよね?」

「え、えぇ、構いませんけれど…ではなくて、本が…!」

「あぁ、気にしないで持ってきなよ。城から持ち出さなけりゃ大丈夫だって…」

「そ、そんな事ないですわよ?!この部屋から本を持ち出すなんて…!」

咄嗟のことで判断することも出来ず、貴重な本を手に持ったままアクイレジーナは窓の外に出てしまった。それは後ほど、老学者の眉間の皺をより深くすることになるのだが…それはまた別の話。
そうして無理やりに外に連れ出されたのが、第4王子との初めての想い出だ。それは少女にとって少し不幸で…そしてとても暖かい出会いになった。

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