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「分からない」という病(思考のデザイン論 )

こんにちは。
ヤマトです。

現代が抱えるテーマということで、もうひとつ取り上げておきたい事柄があります。
それが、現代病ともいえる「分からないという病」についてです。

現代で確立された学問は、どれもその思考様式が「複雑化」「抽象化」されていったため、一般の庶民にとっては「縁遠いもの」「よく分からないもの」というイメージが付きまとうようになりました。
また、これは学問を志すものですら例外でなく、多くの学生が「何を勉強しているのかよく分からないまま勉強している」というのが実状でしょう。

学問とは、そもそもその根底には、ある一種の「哲学(ビジョン)」があります。
そうした「原理」といわれるものは、至ってシンプルなのですか、そこに辿り着く前に多くの学徒が心が折れる、もしくは挫折するというのが、大学などでもよく見受けられます。

真の教育者とは、「難しいことを教える」のではなく、「難しいことを分かりやすく、シンプルに教える」のが、その使命であるのにもかかわらず、実際には逆の様相を呈しているようです。

それでは、そうした「学問の根本問題」の背景には、どのような構図(縮図)が存在するのでしょうか?

僕が考えるいちばん大きな理由としては、「学術的な人間と教育的な人間のそりが合わない」ということが、根本的な問題点としてあるでしょう。

学術的な人間とは、「研究者」であったり、分かりやすい例では「大学の教授」であると思ってもらっても構いません。
一方、教育的な人間とは、一般に「小中高で生徒を教えている人」、「先生」だと言えるでしょう。

では、「教授」と「先生」の違いは何かというと、主に「メインの関心のテーマ」が違います。

教授は、「論文を発表する」のが主な職責ですが、先生は「生徒に理解してもらう」ことが責任としてあります。
教授は「難しいこと」を考えるのが仕事ですが、先生は「分かりやすく伝える」ことが仕事なのです。

そして、この教授と先生の考えていることは、全く違うのです。
教授は先生の仕事にあまり関心がなく、先生は教授の考えていることが理解できません。

この構図が、現代の「分からないという病」を生み出す根本的な原因だと言えるでしょう。

では、「真に教育的で、研究熱心な先生」が世の中にいるかと言うと、ごくごく稀にはいますが、かなりの稀少種であることは確かでしょう。

さて、ここからが本題です。

こうした現代的な問題を解決するには、どうすればいいのでしょうか?
ここで重要になってくるのが、「思考のデザイン」という考え方です。

「思考とはデザインされ、段階的に習得可能なものである」

こうした理念のもと、多くの教育者・研究者が真剣に対話を重ねることで、「思考のデザインマップ」を作ることができれば、こうした「分からないという病」は解決されていくでしょう。

僕自身も協力できることがあれば、協力していきたいのが山々ですが、まだそのような身分ではないのが実状なので…。

何かの機会があれば、こうしてオピニオンを発信していきたい次第です。

それではまた。

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