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間主観的価値の創造(分かち合うことの意味 )

こんにちは。
ヤマトです。

今回は、「間主観的価値の創造(分かち合うことの意味)」と題して、簡単な「人間が感じる価値」について論じてみようと思います。

まず、みなさんは「間主観性」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
この言葉は、もともとはフッサールが提唱した「哲学用語」で、その後社会学などに広く応用されてった専門用語です。

簡単に説明しておきますと、まず人間は「主観性(意識)」というものを持っています。
しかし、われわれは「思考を思考する(考えることを考える)」「意識を客観的な対象化する」「メタ思考する」することが、可能な生き物です。

こうすることで、「意識(思考)」に「客観性」と「一般性」を持たせることができます。
これが、一般的に言う「意識の抽象化作用」「抽象的に物事を考える」ということの本質です。

そして、ここで重要になってくるのが、この主観と客観性のあいだには一般的に「ズレ」があるということです。

たとえば、ある子供が膝をすりむいて泣いていた、としましょう。
そのとき、大人の視線から見ると、「ああ、子どもが泣いているな。」と客観性の方に意識が振れます。
しかし、子どもは少し異なる思考様式をしていて、「ああ、あの子はとても膝が痛いんだな(まるでぼくのひざが痛むようだ…。)」と考えます。

これが、「間主観性(主観と客観の間に挟むもの)」であります。
分かりやすく言うと、「痛い(主観)」と「女の子(客観)」のあいだに、「自分(自分の経験、間主観性)」が挟まっている(サンドイッチになっている)という構造です。

さて、この間主観性を定義したあとで、話は「人間的価値(価値学説)」のはなしになります。
人間的価値とは、主に2種類あって、「客観的価値」と「主観的価値」の二種類です。

まず、客観的価値とは、マルクスによる「労働価値学説」に代表されるような、モノに付随するような価値基準の考え方です。
例えば、100円のコロッケが売っていたするならば、「このコロッケを作るには、100円の価値(コスト)がかかっているから、このコロッケは100円なのだ。」と考えることです。

一方、主観的価値とは、もともと資本主義経済における「限界効用学説」のような市場の需要と供給によって決定される価値のことを指します。
詳しい話は省きますが、僕はこれをもっと一般的に捉えていて、「感受概念(自分が感じたもの、感受性によって決定される概念)」の一種だと捉えています。

分かりにくいので、具体例を出しましょう。
先の例を挙げれば、コロッケが100円で売っていたとしましょう。
先程は「コスト」の面からこの値段(価値)を算出しましたが、別の解釈では「このコロッケを作ったおばさんのまごころがこもっているから、このコロッケは100円なのだ。」と捉えることも可能です。

これが、「主観的価値(感受概念)」の本質だと、僕は思います。

さて、話をもう少し進めて、「第3の価値学説」のはなしをしましょう。
先程おはなしした「2種類の価値学説」と「間主観性」のはなしをかけあわせると、答えはおのずと見えてこないでしょうか?

僕が、この記事で紹介したいメインテーマでもある「間主観的価値」という概念ですね。

この間主観的価値がどのようなものかと申しますと、一般的に「分かち合うことそのものの価値」であり、これが最大の特徴なのですが、「分け合うことで逆に増加していく価値」だと言えます。

そもそも、昨今SNS等のサービスが本格化していますが、その現象の本質とはなんなのでしょうか?

ここに「分かち合うことの喜び(間主観的価値)」をひもとく鍵が眠っています。

つまり、「共感されること」「自分の感覚や体験を共有すること」に、ひとは「無上の幸福(至福)」を感じる生き物なのです。
分かりやすい例で言えば、小説家は小説を書くことで、生きる喜びを得ています。
これは、商売どうのこうのという以前に、自分の感覚や感情というものが「小説というメディア」を通して、他人と共有されることに喜びを感じるから、できる仕事なのだと思います。

同様に、「分かち合えないこと」「分かり合えないこと」「共感されないこと」に人は無上の孤独を感じるわけでもありますが…。

閑話休題。
本題に戻ります。

「間主観的価値(分かち合うことの価値)」には、他の二種の価値と違い、共有されればされるほど、分かち合うことができれば分かち合うほど、逆に価値は増大するという性質があるわけです。

これが「奪い合うことの価値」から「分かち合うことの価値」への発想の転換があるといっても過言ではないでしょう。

もう少し分かりやすいように説明しておくと、近年流行っている「スポーツ文化」などを考えてみて下さい。
日本サッカーになぜあれほど国民が陶酔するかと言えば、その本質には、サッカー体験を「日本中の国民が共有している」からなのです。
つまり、間主観的価値は、国内ではほぼマックス値を取り、産業規模としても、国民レベルのスポーツ文化では最大規模のイベントになるわけです。

「間主観的価値とは、分かち合うことの喜びである」

そのことばの意味を、ご理解いただけたでしょうか?

このことばの真意を探っていくことで、人間の新たな(そして現代的な)価値規範への新たな気づきがあり、「奪い合うだけ」の価値ではなく「分かち合うこと」にも価値があるんだ、と気付いていただければ幸いです。

今回のテーマ、以前の記事(資本主義的コミュニズム)にも関連しているので、よければ目を通してみて下さい。

それでは、また。

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