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ハッピーエンドと花束

他人の影響から、backnumberの曲をきくようになった。

カラオケで、“高嶺の花子さん”を初めてきいたのがきっかけで、登場人物の思考回路がまるで私の様だと感じたのを覚えている。
それからしばらくして、あるドラマで“ハッピーバースデー”という曲が主題歌になっているのをきいて、backnumberの歌の登場人物の情けなさや哀愁がとても気になり始めた。それから、気になるタイトルを1曲ずつ、丁寧にじっくり順番にきくようになった。

だいたいの曲をひととおりきいて、今わたしがリピートして聞いているのは“花束”と“ハッピーエンド”という2つの曲だ。

“花束”は、男女が恋人になった瞬間に、これからふたりのことを話すシチュエーションからはじまる。一番しあわせな瞬間なのに、やはりこの登場人物、それも曲全体の主体は男なんだけど、セリフで登場する女性の方が、なんとも弱気で、控えめで、自信がない。というより、男のテンションにあわせて、あえて控えめに、盛り上がらないようにしているような気さえする。かわいげがないとさえ思う。この、しあわせな瞬間に終わるときのことを考え、浮気は隠し通して、と念押しする。主体の男は、まっすぐに向き合うよと、どこか頼りなさげに告げて、とりあえず僕は君が好きだよ、と締める。
しあわせの頂点にいても一定の緊張と不安がからみついて、お互いに心を開ききれていないような、傷つくのを避けるために予防線を張っているような、“花束”はそんな曲だ。こんな会話を実際したことのある筆者は、こんな悲しいことを空想するのは自分だけだと思っていたけれど、案外みんな、そんなものなんかなって、ちょっと嬉しくなった。

一方、“ハッピーエンド”の方は、男女の関係がまさに終わるときを女性目線で歌っている。タイトルから、きっと温かい気持ちになれる曲に違いないとふんで聞き始めた私は、その重く切なく、涙なしには見つめられないシチュエーションに、耐えられなくなった。
そもそも、ふられるシチュエーションにハッピーなんてどこにあるというんだろう。
自分から決めて去る人は、進む方向にハッピーがあるだろう。でもおいていかれた人間は、虚無感しかないのだ。‘‘ハッピーエンド’’は、終始ふられた女性目線で語られ、一見聞き分けよく別れを受け入れたようにみせかけ、深く傷ついた心を押さえている、なんとも苦しい曲だ。
私は自分がふられた立場なら、こんな終わり方を迎えることはできないと思う。納得がいかずに泣くだろうし、どうしたら元鞘におさまれるか、しか考えないと思う。時間薬だ。泣く日よりも、だんだん、泣かない日が増えていく。涙は、そのうち出なくなる。それでも心の傷はなかなか乾かずに、跡を残す。そしていつか、別の恋に出会うまでは、ときどきズキズキと痛みながら終わった恋と生きるんだと思う。
だから‘‘ハッピーエンド’’の主人公に、憧れた。不意にやってきた別れに、全く納得できていないのに、その慟哭を押さえて、ありがとうと、元気でいてねと、さよならを告げた。わたしも、どんな終わりを迎えたとしても、最後にそう告げられる女性になりたい。たとえその後ひとりになったときに枯れるまで泣くとしても。

この2曲をずっとヘビーローテーションで聞いていたら、この二人は同一人物なのかもしれないと感じてきた。

好きな人と一緒にいられてしあわせなのに、いつ何が起こってもいいように、ずっと予防線をはって、強がって生きてきたら、突然の別れに出会ってしまう。
溢れ出す悲しさや悔しさに耐えられないはずなのに、涙も流せずに、文句も言えずに受け入れてしまうことになった。

もしかしたら逆かな。
しあわせに過ごしてきたはずだったのに、ある日突然別れを迎えることになった女性。彼のことを好きな自分しか見つからないのに抵抗できずにありがとう、元気でいてね、さよならと言い、きっとあとから、体の水分が干乾びるほど泣いたに違いない。時がたって、新しい恋がはじまったけれど、予防線をはらずには恋愛なんてできない、そんな流れかも。

それにしても、そんな強くて儚い女性の恋を、どうしてこの作詞家は描けたんだろう。
そんなことが見抜けるのは、鋭い洞察力と優しさの両方を持った人間か、それを経験したことがあるかのどちらかだ。
少なくとも、‘‘ハッピーエンド’’にでてくる暢気な男には無理だろう。いったいこの作詞家は、どれだけ、泣いたり苦しんだりしたんだろうか。どれだけ、泣かせたり苦しませたりしたんだろうか。

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