見出し画像

ミッドナイトゴスペル第2話考察〜女芸人恋愛したらおもんなくなる問題


今日もミッドナイトゴスペルを考察していく。
8話まで毎日更新できたらいいな。

第2話のゲストは2人いる。
1人は政治活動家、小説家のA・ラモット。
自らの奔放な信仰や
飾らないストレートな表現で
「みんなの作家」と呼ばれているらしい。

こんなTEDを見つけた↓
https://www.ted.com/talks/anne_lamott_12_truths_i_learned_from_life_and_writing
ちょっと見たけど
気のいいおばあちゃんて感じだ。

もう1人は
チベット仏教ニンマ派に精通する
ポッドキャスターのR・マーカス。
この人⇨https://twitter.com/raghu108


第2話の舞台は道化師の惑星。
到着したクランシーは
生まれたばかりの道化師の赤ちゃんが
鹿犬(惑星生物)に食べられているのを目撃し
一緒に食肉工場へさらわれてしまう。

その鹿犬が今回のゲスト2人だ。
クランシーとでろでろに食肉加工されながら
対談を進めていく。

第2話のテーマは**
**「キリスト教における愛と死」
だと思った。
仏教思想が根付いている日本人にとって
キリスト教はとっつきづらいのだが考察する。


ーーーーーここからネタバレ有ーーーーー


親父、死んだけど、 "まあ いいわ"

アニー(A・ラモット)が若い頃、
父が脳腫瘍で亡くなり
親友も癌で亡くなったらしい。

その2人が互いに「癌の調子はどうだい」
なんて冗談を飛ばしているのを見た小説家アニーの処女作は

"ハード・ラフター"

そんなハードな事柄を笑い飛ばす内容になっている。

夫もホスピスで末期患者に接しており、
常に死が身近に存在していたアニーは
死に対する恐怖で苦しんだ。
しかしある日神に降伏し、
苦痛を感じながらも
"まあ いいわ"と言って克服したらしい。

"死を経験したら自由になれる
死を経験してまあいいわと言える"

と語っているが、
それは他人の死の経験であって
アニー自身は死に直面したことはないのだから
死に"他人の"という前提が必要だ。

また、会話の中で

**アニー
「真実はパラドックスよ。
乗り越え方は誰にも教えられない。
元気になれるならとっくになってる。」

クランシー
いずれ元気になるなんていう奴は
けつをスライスしてやれ
」**

なんてやりとりがあるが

他人の死の経験でも何でもそうだが
ある苦痛の経験は
本人だけのもの
なのだから
誰かがどうこう言って
なんとかなるものではない。

クランシーのリアリストぶりには
好感が持てる。

アニーの身近な人の死の経験で
起こったように、自分自身で
辛い経験に対する執着を味わい尽くし
"まあ いいわ"と言うしかないのだ。

ちなみに
ストレスランキング
なるものがありそれによると

1位 配偶者や恋人の死 82.4
2位 親族の死 77.0
3位 親しい友人の死 76.1

堂々の2位、3位を同時期に経験した
アニーの"まあ いいわ"は
かなりの重みを持っていることが想像できる。

21位 仕事上のミス 59.2 にも
"まあ いいわ"
と言うことのできない自分には
想像を絶した
"まあ いいわ"
なのかもしれない。


愛とは何かと問われれば

チベット仏教ニンマ派に精通する
R・マーカスが登場。
24歳の時にインドでグルから
イエス・キリストについて学んだ彼は言う。

"愛とはどのぐらい相手を幸せにできるかなのさ。
自分が誰かのことを考えて、全てをあげたくなる。それが愛さ"

なんともロマンチックな
キリスト教らしい発言だと思う。
こんなセリフ通りなら
自らをボロボロにしてまで
相手に貢いでしまう人は愛で溢れている。

小説家のアニーの愛に対する見解はこうだ。

「死ぬのが怖くて眠れない女の子が
ママを呼び続けるからママが言うの。
"イエスがそばにいるわ" 
すると子供は 
"肌がある人がいい" と。
私たちにはそれが必要なの。
愛があれば全ての痛みが薬に変わる。」

キリスト教的な思想に
母性愛をブレンドした感じだ。
ただそばにいることが愛だと。

でもこれも状況によりけりだろう。
泣いている少女のそばに
見ず知らずの小汚いおっさんが寄り添っても
愛と呼べるかは考えものだ。
このおっさんも状況によるけど。

そんな2人に対してクランシーは

「僕にとっては一番難解な概念だよ。愛とはなんなのか。」

と、当たり障りのない
現実的な回答をしている。

愛は食卓にだってある。
愛にも様々な種類があり
多様な表現ができると思う。

愛について語っている本や歌はいくらでもある。
具体的な状況も無限のパターンがある。

将来のために
子供を苦しめてまで教育する親も

病抱えて苦しむ人をみかねて
殺してしまう医療者も

抱えきれなくなった恋愛感情とともに
心中するカップルも

愛のかたちの1つと
もしかしたら呼べるかもしれない。

もし、私が愛とは何かと問われたら
相手の存在を自分の意識の中に受け入れること。
例えるなら目の前のケーキをともに分け合うこと。

と答えると思う。
勝手に食ってケンカが始まって
じゃれ合う方が仲いい感じするけどね。。


女芸人恋愛したらおもんなくなる問題

アニーとクランシーの対談で
こんなくだりがある。

クランシー
「コメディアンは死への不安を取り除く施術に抵抗がある。」

不安で壊れた精神状態を治療したらお笑いの能力がそがれるからと。
早く悟っていたら、君はもっといい作家になれたと思う?」

アニー
「禁酒をしたら恐怖を感じた。
もう書けないと思った。惨めな状態じゃないから。
それに、恥はもとより荒れ狂うエゴも必要だった。」

「それがないと私はクレイジーではなくなり面白くない。
"元気で幸せになるともうダメ"
でもこれこそが病やエゴのウソなのよ。」

エゴを失ったクリエイターはその能力は失うか。
これは表現者にとっての永遠のテーマだ。

メジャーデビューしたバンドは
尖っている部分を失い
女芸人はおもんなくなるから
恋愛が怖いという。
JKローリングはうつ病の中で
あのハリーポッターを書き上げた。

一方で
村上春樹はめちゃめちゃ走ってるし
宮崎駿は自然と人間リスペクトおじさんだし
その作品のジャンルによって
結論は異なると思う。

小説や音楽を鑑賞して思うのは
人の心の闇を抉るような尖った作品は
不健康なエゴ
からしか生まれないだろうな
ということだ。

アニーが言うように
クリエイティブな能力は失われないだろうが
生み出す作品の質は異なってくるように思う。


生と死のフラクタル

アニーは死を出産に例えてこんな風に語る。

アニー
死は陣痛が来て出産するまでの過程なの。
収縮と解放、呼吸、平和のサイクル。
"痛い痛い また始まった!" "大丈夫 前と同じ。"
収縮と解放を繰り返し、呼吸する。
そしたら天国に。」(一部訳を改変)

出産も死も
押し寄せる不安や苦しみの波が寄せては返し
最終的に生命が生まれる
もしくは無くなる。

生命の誕生も、生命の消滅も
同じプロセスを辿る
という表現に
2人は美しいと讃える。

このプロセスは死や出産に限った話ではなく
この文章を書いている時だって
葛藤とタイピングを繰り返してるし
1日単位でも
毎朝の憂鬱と日没の充実感を繰り返している。

このような収縮と解放のフラクタルな構造が
人生を織りなしていると言える。
人間は数秒単位、数分単位、1日単位でも
生と死を繰り返しているのだ。


昆虫は愛も宗教も食えない

そんな会話を展開させつつも
2匹の鹿犬とクランシーは食肉に加工され
いざ容器に詰められたところで
食肉加工工場で事件が起こる。

水面下で動いていた虫たちが
自身の餌となる食肉を狙って
工場でテロを起こすのだ。

奪われた食肉(ゲストとクランシー)は
最終的に幼虫の餌となり第2話の終わりを迎える。

前回、第1話の
「エゴを失ったゾンビは健康か」
というテーマでもそうだったが

ミッドナイトゴスペルのおもしろいところは
語りで掲げられたテーゼに対して
アニメーションでアンチテーゼをぶつけてくるところだ。

食物連鎖の前では愛もクソもない。
全ての宗教は力を失い
弱肉強食が全ての世界が映し出される。
これが本当の愛のかたちとも言えそうだ。

人間世界だって
捉え方によってはそう捉えられる。
徹底した現実主義
私は高身長ハイスペックイケメンになりたい。


帰還したクランシーは
飲み込んでいた道化師の赤ちゃんを吐き出す。

赤ちゃんは
「君は死なない。絶対に決して死にはしない...。」
と歌い出す。

その赤ちゃんは
ブラックホール内蔵犬型ルンバに吸い込まれる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?