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ミッドナイトゴスペル第1話考察〜愛とゾンビと人生

自粛中、突然友人からラインが来た。

「ミッドナイトゴスペル」ってアニメがあるんだけど
絶対好きだと思うから見てみて!

聞けばアドベンチャータイムの監督話題の最新作で
アドベンチャータイムよりぶっ飛んでて
観る麻薬、観る瞑想と呼ばれているらしい。

全8話だったのですぐに観てみたのだが
このアニメをわざわざラインで
おすすめされるような人間であることに
恥ずかしさを覚えた…。

このアニメをラーメンで例えるなら
アドベンチャータイムのような陽気なカートゥーンをベースに
サウスパークを彷彿とさせるグロ腸管麺がぶち込まれており
トッピングに宗教、哲学、心理学、スピリチュアルマシマシの
ハイカロリー次郎系アニメだ。

毎回ゲストを呼んで対談するのだが
中毒医学の専門家、元死刑囚、瞑想家など
めちゃくちゃ濃いメンツが
TED並の重さの話を展開する。

破茶滅茶なアニメーションとストーリーにあまり関連がないため
脳にはかなりの負担がかかり
鑑賞中は一種のトリップ状態
観終えた後は脳がもたれる感じがする。

そんなトンデモアニメなのだが
1周しただけでは消化不良だったので
2周目を観ながらじっくり考察していこうと思う。



ーーーーーここからネタバレ有ーーーーー


薬に善悪はないか?

1話目はゲストに
中毒医学の専門家ドリュー・ビンスキー氏
を迎えたゾンビ回である。

大麻の合法化についての議論や
主人公クランシーが睡眠薬と酒で死にかけた話をしながら
最終的にみんなゾンビになってしまう話だ。

1話目のテーマは
ゾンビという概念を用いた
薬物と瞑想、エゴと悟りの関係性

と言ったところだろう。

ドリュー・ビンスキー氏は
大麻の合法化についての議論の中で、

「悪い薬はない。使う状況による。
薬と人間の関係性が大事だ。」

と語っている。

アニメ序盤ではこんな事も語られる。
「大麻は合法化されていないが
合法である睡眠薬や抗不安薬、オピオイドの使用で
十分に肉体も精神もやられ
使い方を誤れば最悪死に至る。」

つまり、現在合法とされている薬も
違法的な使い方をすれば
適正使用する大麻より劇薬であり
大麻だけ特別視しなくて良いという考え方である。

薬の存在自体に善悪はなく、使う人間の問題なのだ。

改めて考えると当たり前なことで
刃物や鈍器、火器の使用に関して
騒ぎ立てる人間を知らない。
適切に使用することが当然であるからだ。

そのような前提に拠って立つと
大麻に対する悪のイメージも
少しは緩和される気がする。

大麻を悪とするならば
耐性を形成し、身体依存も精神依存もある
酒やタバコの方がよっぽど悪であるように思えてくる。
(大麻は精神依存のみ)

かといってビンスキー氏は大麻合法化に賛成していないし
自分も大麻合法化を訴える気には全くならない。
人は変化を恐れるし
それ以上に周りの目を恐れるからだ。


meditation(瞑想)とmedication(投薬)

ここで主人公のクランシーが語る。
一時期怒りを抑えるために幻覚剤を使用していたが
今は瞑想で感情を観察するだけで
怒りをやり過ごせるようになったと。

瞑想は英語でmeditation
薬は英語でmedicineだが
実はどちらもラテン語で同一の語源なのだ。

meditationは medeor(治療する)+to(反復する)
medicineは medeor(治療する)+icus(〜している)

実際にクランシーは自らの怒りを幻覚剤
のちに瞑想によって治療している。

こと精神疾患に関していえば
瞑想は薬と同様に力を持ち
瞑想がうつ症状に効果があることは
現代の科学でも証明されている。

個人的なイメージだと
抗不安薬をはじめとする向精神薬は
偏った精神の振り子を反対側に押してあげるイメージ。
瞑想は振り子の動きを鎮めて中心におさめるイメージだ。

ビンスキー氏はこうも語っている。

「健康とは現実をあるがままに受け入れること」だと。

こんなに難しいことはない。
他人の一挙手一投足にいちいち意味付けをしては
怯えたり歓喜するようなことばかりだ。

過ぎ去った過去に執着し
未だ来ぬ未来に期待する日々。

そんな思考や感情すらも天気のようなものだと
受け入れ観察するのが瞑想の基本だが
感情にのまれてしまう時はあるし
それが無くなるのは少し怖いような気もする。

そのような感情の浮き沈みを求め
体験したいのが人の生なのだから。


愛とゾンビと人生

しかし、そんな人間らしさを
完全に失った存在がゾンビである。

エゴや感情を失い
ただ仲間を増やすために
人間を襲うようプログラムされた存在。

物語の終盤で
ゾンビに噛まれたビンスキー氏はゾンビ化し
クランシーをもゾンビにしてしまう。

バッドエンドかと思いきや
ゾンビになったクランシーたちの
気分はすこぶる良さそうで
他のゾンビたちと一緒に歌い出す。
この歌の歌詞も面白い。

「ゾンビは最高だ。やることもやられることもない。」

エゴを失ったゾンビに
やるとからやられるとかの概念は発生しない。
ただ誰かに動けなくされるまで
仲間を増やし続けるだけだ。

「僕らはゆっくりと動く。走る必要がないから。」
「愛から逃げるのに走る必要があるかい。」

人間は走る。自転車に乗る。車にも乗る。
恐れているからだ。
生活の糧が失われることの恐れ
人から嫌われてしまうかもしれない恐れ。

でもゾンビは忙しくする必要がない。
あるがままでいい。
幾多のミュージシャンたちが歌ってきたところの
愛にどっぷり浸かっていられるのだ。
フロムの自由からの逃走を思い出した。

「人生という檻の鍵を見つけた」
「ゾンビに噛まれることで」

人生という檻とはエゴの檻
感情の体験から逃れられない檻だ。
でもゾンビにはそれがない。
ある種の精神的な死を迎えることによって
全てから解放されたのだ。


第1話はゾンビ化によって
カタルシスを迎えている。

一見不健康極まりない容姿のゾンビが
現実をあるがままに受け入れることができる
"健康な存在"として描かれている。
エヴァンゲリオンでいうところの人類補完計画の達成だ。

この話を観るとつくづくゾンビが羨ましい!
と思うのだが
自分のことをゾンビのような存在
だと思わないこともない。

ゾンビは人を襲いゾンビ化するプログラムだけが
組み込まれているが
人間も複雑なプログラムによって
一喜一憂するゾンビなのではないか
と思うことがある。

自分が思う健康や悟りは
そのプログラムが作動しているのを
ただ観ている境地にあることなのだが
健康や悟りを意識した時点で
それは不健康や煩悩まみれという
自己矛盾を孕んでいる。

というか言葉自体が嘘を孕んでおり
現実をあるがままに受け入れることから
どんどん離れていく。

かと言って無思考、無感情のゾンビにはなり得ないので
(特殊な方法を使えば可能かもしれないが)
この混沌とした日々を
淡々と過ごしていくしかないと思うのであった。


ーーーーーーーーーーーーー

ゾンビ化ハッピーエンドも束の間
ゾンビ化を解除できる注射器を持った政府が現れ
ゾンビを次々と人間の姿に戻していく。

人間の姿に戻ったそばから注射器で腹が貫通したり
隣にいるゾンビにやられたりして
真のバッドエンドのように受け取れる。

しかし主人公のクランシーは
このゾンビ世界をシュミレーターで体験しているので
無傷で自宅に帰還する。
再びハッピーエンドだ。

「ぶったまげたな」
「内臓を食い破られたのにこうして無事だ」
「多元宇宙の皆さんにお礼を」

自分の人生を
こんな風に受け取ることができる状態のことは
なんて呼ぶことができるだろうか。

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