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ハートマン軍曹から学ぶ公平な生徒指導

世間話としての情報交換

「あの子いい子やわ~」
「今日はこんな事で助けられたわ~」
「またあの子宿題提出してないわ!」

上記の会話はよく職員室で飛び交う会話の例である。
職員室では、その日の生徒のトピックスは世間話のように交わされる。もしもこれを読んでいるあなたが学生で、その日学校に所属する先生に怒られたり、指導を受けた場合、高確率で他の先生の耳に入っていると考えるべきだ。

うそ!最悪!

と思っても、これは教師にとって自然に行われる情報交換であり、当然の会話である。
小学校のように、担任が登校から下校まであなたたちを管理している訳ではない中学校・高等学校の場合、これによって担任はクラスの状況を把握し、また周囲の先生から得た情報によって生徒の様々な情報を今後の指導に活かしていくのである。

ところが、観察力・洞察力の乏しい教員にとってこれは間違った情報となる場合がある。
心理学用語で言うところの「バイアス」が影響するのだ。

バイアスとは?

「あの人の意見には○○は無意味だというバイアスが最初からかかっているから」のように、思い込みや思想などから考え方等が偏っていることなどに用いる。
この場合は「彼の意見はバイアスだ」より、「彼の意見にはバイアスがかかっている」と使われることが多い。
(Wikipedia「バイアス」より一部抜粋)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/バイアス

というように、簡単に言えば「偏った先入観」を指す言葉である。

上記の説明文が指すように例えば最初に挙げた教員間の会話によって、観察力や洞察力が乏しい教員は知らなかったからこそ人から又聞きした内容がその人にとって事実化してしまい、それがバイアスとなって、偏った先入観によって生徒を見てしまうことに繋がりかねない。

生徒間でいえば、人から聞いた噂によって、自分が見たわけでもないのに「あの人はそういう人なんだ!」と勝手に解釈してしまうことを指していると思えば分かりやすいだろう。

当然、バイアスによって不当に評価される生徒にとっては、受け入れがたい不利益となることは目に見えているし、もっと言えばバイアスによっていわゆる「贔屓」(ひいき)と呼ばれる現象が起こり得ることも否定はできない。

バイアスに惑わされないために

では、そのバイアスに惑わされることなく、正当に生徒を評価・指導するためにはどうすれば良いのだろうか。
この答えの前に、あなたは「フルメタル・ジャケット」という映画をご存じだろうか。

フルメタル・ジャケット』(英語: Full Metal Jacket)とは、1987年のアメリカ映画で、ベトナム戦争を題材にした戦争映画。監督はスタンリー・キューブリック。

原作は、グスタフ・ハスフォードの小説『ショート・タイマーズ(英語版)』(用語の意義としては「短期現役兵」)。邦訳は『完全被甲弾』となり、弾体の鉛を銅などで覆った弾丸のことである。詳しくは弾丸の記事を参照のこと。日本での公開は1988年3月。

「2001年宇宙の旅」や「時計仕掛けのオレンジ」で有名なキューブリック作品。
この映画に、新米兵士を育成する鬼軍曹としてハートマン軍曹なる人物が登場する。

鬼軍曹として、凄まじい言葉で新入りたちを罵倒する名シーンが劇中冒頭にあるが、ここで、下記に記したハートマンが新米たちにぶちまけた文言を読んでみてほしい。

<HARTMAN
わたしが訓練教官のハートマン先任軍曹である
話しかけられたとき以外は口を開くな 口でクソたれる前と後に“サー”と言え
分かったか、ウジ虫ども!

<RECRUITS>
Sir, yes, sir!

<HARTMAN>
ふざけるな!
大声だせ!
タマ落としたか!

<RECRUITS>
Sir, yes, sir!

<HARTMAN>
貴様ら雌豚どもが俺の訓練に生き残れたら ...
各人が兵器となる 戦争に祈りを捧げる死の司祭だ
その日まではウジ虫だ!
地球上で最下等の生命体だ 
貴様らは人間ではない
両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!

<HARTMAN>
貴様らは厳しい俺を嫌う
だが憎めば、それだけ学ぶ
俺は厳しいが公平だ
人種差別は許さん
黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん
すべて平等に価値がない!
俺の使命は役立たずを刈り取ることだ 愛する海兵隊の害虫を!
分かったか、ウジ虫ども! 

<RECRUITS>
Sir, yes, sir!

<HARTMAN>
ふざけるな!
大声だせ!

(一部抜粋)

……とまあ、相当過激な挨拶だが、これはこの後も凄まじい勢いで続いていくがここでは本旨とずれるので割愛する。

ここで注目すべきは台詞にもある「すべて平等に価値がない!」の箇所だ。
ハートマン軍曹は、最初から兵士たちを差別せず、またバイアスもかからないように自ら新米兵士たちのもとを訪れ、このように宣言した。

バイアスが生徒指導にもたらす影響

話題を当初の教員の指導の話に戻すと、例えば生徒間でトラブルがあり、当該生徒を呼んで話を聞くが、どちらの話を聞いてもある部分で内容が一致しない箇所があると仮定して(つまり、どちらかが嘘をついている)、このような場合にバイアスがどのような状況を生むかはもうお察しの通りである。

日常、特に観察をしていなかった場合、他の教員から伝え聞いた出来事をもとに既にバイアスが形作られ、「嘘をつきそうな方の生徒」への追求が始まるのである。

しかし、もしもその生徒が嘘をついていなかった場合、その指導を行った教員とその生徒の間の信頼関係が修復されることは二度とないだろう。
これが教職現場に起こりうる、恐ろしいバイアスの落とし穴なのである。

公平とは

最後に「公平」を正しく考えるには、どのようにしなければならないかを考察する。

公平とは、偏りがないことである。バイアスがからずに、公平に物事をジャッジするための絶対条件は

他人からバイアスを提供される前に自ら観察し、そもそもスタート時点で評価の差を設けない。

ことではないだろうか。

もちろん、職員室で交わされる生徒のトピックスを否定するつもりは全くなく、それの害悪を問うわけでもない。
ハートマンから学ぶことは「最初に評価の差を設けない」ということだ。
生徒たちには当然個々の個性があり、親切な者や優しい者もいれば意地悪な者もいるが、それ自体に価値を置かず、「直接自分が見た行動」に価値を置くべきであると考える。

良かったことは素直に認め、良くなかったと思われることは生徒の言い分を聞いてから指導する。ただこれだけである。
他人の評価は得てして「他人」の評価であり、自分の評価ではない。
他人の言葉を自分の考えとして塗り替えてしまってはいけない。
公平を実現するためにはバイアスは必ず取り払われた状態で指導を行うべきであり、それがハートマンの言う「すべて平等に価値がない」である。

公平な指導のためには、自らバイアスを取り除き、自ら行動してその生徒一人一人の評価を行っていくべきだと考える。

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