『球陽』の天文記事 ~客星~

 客星とは、中国や日本での古い記録上で、突発的に現れた天体の総称として用いられた言葉。新星や超新星、彗星などが対応している。(天文学辞典)
「球陽」には客星の記録が3件ある。そのうち2件は彗星の記録と思われる。残る1件も彗星の可能性が高いが、検討を要する記述がみられる。

尚質王十七年の客星

冬十一月客星斗座を侵す。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

「斗座」とは何か

 これは「球陽」に現われる最初の天文現象である。また、「斗座」という天球に固定されたと思われる座標による唯一の記録である。
星にまつわる「斗」ですぐに思い浮かぶのは北斗七星と南斗六星であろう。
程順則の「指南廣義」では、北斗七星に似た並びの図に「北斗」と記されており、(琉球大学図書館 琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ「指南廣義」image48)

二十八宿が列挙された文字列の中に南斗六星(斗宿)を表す「斗」の文字もみられる。(琉球大学図書館 琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ「指南廣義」image41)
尚質王十七年(1664年)十一月は12月18日~翌年1月15日である。この中日にあたる十五日(1664XII31)には、斗宿付近に太陽があり(第1図)、ここで起きた現象を観測できたとは考えられない。

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第1図 1664XII31の斗宿付近

 また、SNSにおいて「太陽が斗宿にある時」という意味ではないかとの意見をいただいたが、日時を表すのに太陽の位置を用いている記録は他に見当たらず、文法上もそう解釈するのは無理がある。
 北斗である可能性については、その付近で客星が出現したことを示す他の記録はなく、また「なかった」と断定することもできないため、判断できない。
 これら以外に「斗座」という琉球独自の星座はなかったのだろうか。北尾浩一氏は日本各地を歩き、採取した星の名前を「日本の星名事典」として著している。それには琉球独自の星名も記載されている。また、星と農作物の播種等の時期を記した「星図」や「星見様」といった古文書の存在も知られている。これらにも「斗座」は記載されていないが、一般的に不存在を証明することは困難であり、「斗座」という現代に伝わっていない独自の星座が存在していた可能性を排除することもできない。

現象の候補

 この時期、「1664年の大彗星(C/1664 W1)」という非常に明るい彗星が出現し、日本、中国だけでなく、ヨーロッパ各地で観測されている。

 「清史稿」の「卷39 志十四 天文十四 客星 流隕 雲氣」によると、康煕3年10月に軫宿(からす座)に現れた彗星が逆行し、11月に張宿(うみへび座の一部で六分儀座の南)で尾の長さが5尺余であったという。

二十四年三月壬辰,彗星見東南方;甲午,出?第一星下,大如榛子,色蒼白,尾長尺餘,指西南,順行;癸卯,體小光微,尾餘三四寸;戊申,全消。四月戊辰,彗星見西南方,在張第二星上;己巳,離張六度,大如榛子,色蒼?,尾光散漫,長二尺餘,指東南,順行;壬申,形跡微小;丁丑,更微;己卯,漸散;五月壬午,全消。
(「清史稿」卷39 志十四 天文十四 客星 流隕 雲氣)

 詳細な観測記録に基づいて軌道要素が求まっており、ステラナビゲータで再現することができる。(第2図)
長さが40度の尾を持つ-1等級の彗星は、人々の目を引き記憶に残ったであろう。しかしながら経路上に斗宿や北斗七星はない。

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第2図 尚質王17年11月のC/1664 W1の天球上の位置

 「天文史料に見られる超新星」(長谷川一郎2006)によると、朝鮮の記録「増補文献備考 巻六」に歳星(木星)ほどの黄赤色の星が天江付近(へびつかい座θ星付近)に現れたとの記録がある。

No.16 顕宗五年甲辰九月(1664Oct./Nov.)客星見干天江上 大如歳星色黄赤動揺反見干東 至翌年五月(1665June/July)乃滅
「天文史料に見られる超新星」(長谷川一郎2006)に記載の「増補文献備考 巻六」

 C/1664 W1が逆行しているのに対し、こちらは順行している。
 第3図は顕宗五年甲辰九月十五日(1664XI2)天文薄明終了時の首里における西天の様子である。へびつかい座θ星の高度は低いものの、木星クラスの明るさ(-2等級)であれば十分視認できるであろう。へびつかい座θ星の東には斗宿があり、順行したのであれば斗宿に接近又は通過した可能性が高い。しかしながら十一月(1664XII18~1665I15)にはやはり太陽にかなり近づくため、視認できたとは考えにくい。

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第3図 顕宗五年甲辰九月十五日(1664XI2)天文薄明終了時の首里の西天

考察

 C/1664 W1は、日本や中国だけでなく、ヨーロッパでも観測されている、人々の目を引く顕著な彗星である。よって、候補の筆頭に挙げるのは自然である。この説をとるにあたり残る疑問は「斗座とは何か」である。斗宿や北斗ではありえなくなるので、琉球独自の「斗座」の存在が必要となる。

 朝鮮で記録されたへびつかい座の客星は、位置・時期ともに近いが、十一月に斗宿に達したとしても太陽が近すぎるというのが難点である。また、この客星は、ヨーロッパや隣の中国、日本で記録が見当たらないというのも弱点である。

 歴史的記録を扱うにあたり、「他の物的証拠等によって明確に否定されない限り、記録者は正しく記載している」とする事は大原則であると認識している。
 この記録についていえば、「斗座」を無視すればC/1664 W1の記録として何ら問題ないし、「十一月」を「十月」の誤記などとしてしまえばへびつかい座の客星が有力な候補となる。
 確固たる根拠なしに自説に不利な部分を無視又は改変することは、厳に慎むべきと考える。
 「球陽」が編纂され最初の完成をみたのは1745年で、この現象から約100年後のことである。この現象がどのような経緯で伝承され「球陽」に記載されることになったのか、歴史学サイドからの検討が必要であろう。

尚貞王十四年 客星、丑寅の会を侵す

秋七月廿八日、客星丑寅の会を侵す。是に由りて国書院官、王に転達し、遂に唐栄臣僚に問ふに、曰く、前夜碧天を仰観するに、客星酉方を侵す有りと。
此れこの二説相斉しからず。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 尚貞王14年7月28日は1682VIII30である。
 斎藤国治著「国史国文に現れる星の記録の検証」によると、これはハレー彗星の記録である。なお、同書で「尚真王」となっているのは「尚貞王」の誤りである。「丑寅の会」とは北東の空を意味しているのであろう。この日の明け方、天文薄明が始まる頃に、ハレー彗星は北東の空、約10度の高さに見られた。(第1図)

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第1図 明け方東天のハレー彗星

 唐栄とは久米村のことであり、14世紀末に中国系の人々が琉球に移り住んだ集落である。そこに住んでいる役人に明け方の客星の事を聞いたら、「昨日の夕方、西の空に客星があったよ」という返事だったとのことであろう。
 この時のハレー彗星は、前日の日没直後には北西の低空にある。しかしながら、フランスのピカールの観測では彗星の頭部の光度は2等級で、日没直後に観測できたとは考え難い。また、方角も酉ではなく乾にあたる。この日、酉の方角には金星が見えている。(第2図)

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第2図 前日日没時の西天

尚穆王十八年の客星

七月二十六日夜子の刻、御番頭、客星卯方に見はると進奏す。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

 当日子の刻の東の空には、メシエ彗星(C/1769 P1) がある。時刻・方角とも一致することから、この彗星の記録と考えるのが妥当であろう。この日彗星は牡牛座にあり、オリオン座に向かって東行している。
 この彗星は、明るさよりも尾の長さが注目を集めていたようで、Wikipediaには尾に関する記述が多い。

 彗星の発見者は、星雲星団のカタログで有名なシャルル・メシエである。と書くと、メシエは立腹するであろうか。メシエはその生涯で13個の彗星を発見している。メシエは、彗星捜索にじゃまな紛らわしい天体をリストアップし、それがメシエカタログとして知られているのである。

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