『球陽』の天文記事 ~大星~

尚育王九年 1843III30日~VI27
本年二・三・四・五等月、大星有り。

此の年、二月三十日より以て五月三十日に至るまで、味爽の時刻、辰方に常と異なるの大星有り等の由、御番頭、下庫理当に逓へて転奏せしむ。
(角川書店発行 球陽研究会編 球陽 読み下し編)

この頃、りゅうこつ座η星が増光し、最も明るい時で-0.8等に達している。ここでは、この現象の記録である可能性について検討する。

方角について

尚育王九年二月三十日はグレゴリオ暦では1843年3月30日であり、五月三十日は6月27日である。この年代、りゅうこつ座η星は首里(那覇市)では方位角163度から昇り、南中時の高度は5度、方位角198度に没する。「琉球の天文史料」(神田・大崎 1932)では

龍骨座η星ではないかと思ふ。同星は新星又は不規則變光星と考へられ、この一八四三年には最大高度で、一月にはリゲル位、三月にはカノプスをも凌ぐ光度になつたものである。但し辰方は少し疑はしい。
(「琉球の天文史料」 天文月報 No12 1932)

と、りゅうこつ座η星の観測記録であることを指摘しつつも、観測された方角(辰方)に疑問を呈している。360度を12等分し子の方角を345~15度とすると、辰の方角は130~160度となり、りゅうこつ座η星が昇る方角は巳(細かく言えば辰巳)の方角となる。しかしながら、普段と異なる場所で観測していたのであれば、誤差として許容できなくもない。

観測された日時について

『球陽』の記録によるとこの大星はグレゴリオ暦6月27日まで観測されている。ところが6月27日のりゅうこつ座η星の没は18時59分であるのに対し、日没は19時06分である。全天一明るい恒星のシリウスでも、日没前に見えることはなく、其れよりも暗い星が見えることはさらにない。おそらく6月20日頃からは確認は困難となっていたのではないだろうか。

これについては、(苦し紛れではあるが)次の仮説が考えられる。

現代の沖縄において、5月から6月は梅雨の期間にあたる。当時も梅雨の期間にあたり、6月の後半は曇りや雨の日が続いて観測ができず、27日になって晴れた時には、既にりゅうこつ座η星は日没時に水平線下となっていた。このため、「27日には見えなくなっていた」という意味でこの日付を記録した。

この仮説の検証には、当時の日々の天気を記録した日記等が必要であるし、「普通は最後に見えた日を記録するのではないか」という反論も十分考えられる。

もう一つ、「昧爽の時刻」には見えないのではないかという疑問もある。
辰方に見えたというのは、昇ったばかりの状態を見たことになる。
辞書によれば、昧爽とは「明け方のほの暗い時」である。
この現象の初見は二月三十日で、これはグレゴリオ暦3月30日である。この日のりゅうこつ座η星の出は19時50分であり、これは日没(18時26分)の約1時間半後である。「この当時は日没後にも“昧爽”を用いていた」ということが確認されない限り、まったく一致しない。

地形

りゅうこつ座η星の南中高度は、方角の項で述べたとおり約5度である。増光したりゅうこつ座η星が観測されるためには、仰角5度以下を見通せる地形が必要である。
国土地理院地図には、任意の二点間の断面図を描く機能がある。この機能を利用し、首里城から方位角163度の断面図を作成した。首里城から具志頭城址沖の約12kmを300等分(約40m間隔)しているものである。

画像2

第1図 首里城(左端)から方位角163度(具志頭城址付近)の高低差
(国土地理院地図)

画像2

第2図 第1図の始点と方角(国土地理院地図)

この方角には、城内の一角を除き、首里城より標高の高い地点はなく、りゅうこつ座η星を観測することは十分可能だったのではあるまいか。少なくとも正殿の2階又は3階からは確認できたと思われる。

結論

首里城からはりゅうこつ座η星を観測することは可能であり、方角の問題も観測誤差の範囲と解釈することもできる。しかしながら記録の「大星」をりゅうこつ座η星と断定するには、観測された時刻、期間に疑問が残る。


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