「四十頌からなる実在」各節紹介 その6

いずれ「オンライン・ラマナ・サットサンガ」の詠唱用コンテンツとして配信予定の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第13節 】

ジュニャーナ マーム ターネー メイ ナーナーヴァー ジュニャーナ マン
Jnāna-mām tānē-mei nānāvā jnāna-man

ジュニャーナ マーム ポイヤー マン ジュニャーナ ムメ ジュニャーナ マーン
Jnāna-mām poiyām-an jnāna-mume – jnāna-man

タンナイ ヤンドリ インドラニ ガル ターム パラヴム ポイメイ ヤーム
Tannai-yandri indrani-gal tām-palavum poimei-yām

ポンナイ ヤンドリ ウンドー プガルダ ナーン エンヌ マッ
Ponnai-yandri undō pugaluda-nān – ennu-mat


【 柳田訳 】
知識である真我はそれだけで真理である。多様性をもつ知識は無知である。この無知は — それは非実在であるが — 知識である真我をはなれては存在しない。多様な金の装飾品は、その素材である金を離れて実在性をもつだろうか。


【 福間訳 】
真我は叡知※4である。ただ「それ」だけが真理である。多様な知識は無知でしかない。偽りでしかない無知でさえ、真我を離れては存在しない。多様な金の装飾品が素材である金を離れて存在するだろうか?
※4 叡知:タミル語版原典のこの言葉はjnanamであり、「知識、叡知」を意味するが、「気づき」と解釈することもできる。



【 第14節 】

タンマイ ウンデール ムンニライ パダルッ カイザル ター ムラヴァーン
Tanmai-undēl munnilai padark-kaigal tām-ulavān

タンマイ イン ウンマイ ヤイ ターナーインドゥ タンマイ ヤリン
Tanmai-yin unmai-yai tānāindu – tanmai-yarin

ムンニライ パダルッ カイ ムディヴッ トロンドラーイ オリルム
Munnilai padark-kai mudivut-trondrāi olirum

タンマイエー タンニライ マイ ターニダ ムン マンヌム
Tanmaiyē tannilai-mai tānida-mum – mannum


【 柳田訳 】
もし一人称が存在すれば、二人称、三人称もまた存在する。もし一人称の実在性が探究されると、一人称は存在することをやめ、二人称・三人称も(また)存在することをやめるだろう。そしてすべてが一者として輝くだろう。これが人の真の本性である。


【 福間訳 】
「私」が現れて、初めて「あなた」や「彼」が現れる。だが、「私」の本性を探究して自我が破壊されれば、「あなた」も「彼」も消え去る。そのとき「一者」として輝く存在、それが真我である。



【 第15節 】

ニガ ヴィナイッ パットリ イラッ ペディルヴ ニルパ
Nigazh-vinaip pattri yirap-pedirvu nirpa
  
ニガー カール アヴァイユ ニガーヴェー ニガー ヴォンドレー
Nigazh-kāl avaiyu nigazhvē – nigazh-vondrē

インドルン マイ テーラ ディラッ ペディルヴ テーラ ヴナル
Yindrun-mai tēra dirap-pedirvu tēra-vunal

オンドリンドリ エンナル ウナルナラ ニンドラ ポルル
Ondrindri yennal unalunara – nindra-porul


【 柳田訳 】
過去と未来は現在に依存している。過去や未来もその進行中には現在である。現在だけがある。この真理を知ることなく、過去と未来を知ろうとすることは、数の単位(一)を知らずに数を数えようとするようなものだ。


【 福間訳 】
過去と未来は現在に依存している。過去は現在であったし、未来もまた現在となる。ただ現在だけが永遠に存在している。この時間の真理を知ることなく、過去や未来を知ろうとすることは、「一」を抜かして数を数えるようなものだ。









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