「教えの精髄」各節紹介その4

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第10節

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クツタレ マナハ スヴァスタタ クリヤ
hrtsthale manah svasthatā kriyā

         バックリヨガボーダスチャ ニスチタン
         bhakriyogabodhāsca niscitam

【柳田訳】
「源への吸収」あるいは存在の核(あるいはハート)への吸収は、カルマ、バクティ、ヨーガ、グニャーナの道が教えるところである。

【福間訳】
心がハートの源に融け入ることこそ、カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である。

【おおえ訳】
根源、あるいは存在の髄(フリダヤ)へ融け入ることは、カルマ(行為)、バクティ(献身)、ヨーガ(瑜伽)、ジュニャーナ(知恵)の道の説くところ である。

(注釈)
 この訓戒は『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』Ⅲの114の①と『ブラフマ・スートラ』Ⅰの1の②に見られる。これらの四つの道は互いに相入れないものではない。
 ここで第一詩句から第九詩句はカルマとバクティを、第十詩句から第十五詩句はヨーガを、そして第十六詩句から第二十八詩句はジュニャーナを取り扱っている。
 『シュリマッド・バガヴァタ』の中ではジュニャーナ、バクティ、カルマの三つの道のみがあると説かれている。
 ある者はさらに歩を進めてカルマの道は他の道への前段階以外の何ものでもないという。
 根源へ融け入れ! バクタ (バクティをなす者)の献身的な心は人格神を自分と他のいっさいのまごうことなき根源として見いだし、全面的に神の中へ自己を融け入らせようと努め、かくして彼はゴールに到るのである。
 形而上学的な問題への熱烈な学習心を持って分析的内省を進めるジュニャーニ (ジュニャーナをなす者)は、自己と宇宙の万象の根源や本性の探求へと進み、自己と万有の本源たる究極の実在(アートマン=ブラフマン)に到達して、自己をそれとして実現すること、すなわちそれの中に彼の有限な個性を融かし去ることを求める。
 実践的な傾向を持ったヨーギは、帰依者あるいは探求者が人格神や「非人格のアートマン=ブラフマン」への集中を可能ならしめるサーダナ(成就法)の細部に注意を向けるようになり、一 連の自己修錬、すなわち心の神あるいはアートマン=ブラフマンへの融合(サマーディ)や不動性を得さしめる呼吸法やその他の肉体的、精神的行法などを試みる。カルマの道の修行者もまた究極の融合を目指し、彼を目的地へと導くさまざまな行為の実践に自己を没入させる。これらの道はすべて「汝自身の根源を求め、見いだし、その中に融け込め」という訓戒を述べている。第十一詩句から第十四詩句は融合を扱い、第十九詩句から第二十一詩句は根源への探求を扱っている。
 根源。この言葉は究極の実在、形而上学者たちがいっさいの存在の由来を尋ねるブラフマンを指す。定義の助けによって自ら見いだせるようにとヴァルナによって息子ブリグに説かれたブラフマンの定義は次のようである。
「ブラフマンとは宇宙のいっさいの創造物が発して来るところであり、全創造物がその上で維持され、その内に帰入するところ(すなわち、根源、支え、宇宙の最終地点)である。」
 この定義はおおよそ非人格的絶対者、実在、純粋意識、唯一なる者を指すとみなされている。また人格神を指していると見る者もあり、その両者と見る者もある。いずれにせよ、これらは互いに浸透し合っているのである。
 この根源という言葉の代わりに、マハリシは、サンスクリット語版の中で、「フリダヤ」、すなわち「ハート」という言葉を用いている。しかしタミール語版にはこの言葉はどこにも用いられていない。とはいえ宗教文学(取り分け神秘主義)においてはしばしば用いられる言葉であるから、ここで手短かにではあるが、触れておこう。「フリット」もしくは「フリダヤ」は複数の意味を持つサンスクリット語であり、一つの意味からほかの意味への転化は明らかにそれらの近似性にある。
 フリダヤという言葉の第一の意味は、生理学で血液循環器として知られている内臓器官(心臓)を指す。これは現在も人間存在の中心的本質的活動と同一視され、そこから肉体のあらゆる部分に神経が発する中心的源として扱われている。そしてこのハート、あるいはフリダヤのもう一 つの意味は、人間存在の本質、アドヴァイタ哲学の究極、 唯一の実在、アートマン=ブラフマンを指す。(『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』Ⅷの3の③およびサンスクリット版『ウパデーシャ・サーラ』第二十詩句参照。) このようにフリダヤは一方では生理学的に、 他方では哲学的に用いられる。
 多くの哲学者、神秘家たちが究極の実在への融合の至福を求めてさまざまな体験をなしてきた。神秘家たちはこの目的のために、彼らの自我の宿る究極的もしくは一時的な場所として、彼らの胸に注意力を向け、集中し続けたのである。彼らの体験的記録によると、深い眠りとサマーディの中では等しく、ジーヴァ、すなわち経験的自我は彼らがハートと名づける胸の中心に融け入ってゆくように感じられるということである。


第11節

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ヴァーユロダナー リーヤテ マナハ
 vāyurodhanāl līyate manah

         ジャーラパクシヴァード ロダサーダナン
         jālapaksivad rodhasādhanam

【柳田訳】
鳥が網で捕えられるように、呼吸を保持することによって心は抑制され没入させられる。これ(呼吸の調節)は、効果的な没入のための手段である。

【福間訳】
網に捕らわれた小鳥のように、呼吸が制御されれば心は静まる。呼吸制御は心の制御法である。

【おおえ訳】
小鳥が網で囚われるように、呼吸の制御によって、心は抑制され融かし去られる。これ(調息)は効果的な融合の術である。

(注釈)
プラーナヤマ(呼吸法)は、心の活動に一時の安らぎをもたらす方法の一つである。


第12節

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チッタヴァーヤヴァース チックリヤーユターハ
cittavāyavas citkriyāyutāh

         シャカヨルヴァイー シャクティムーラカー
         sākhayordvayī saktimūlakā

【柳田訳】
何故なら、思考と行為の中に表現される心と生気(プラーナ)は異なるものであり、枝分かれするが、それらは単一の根から成長するのだから。

【福間訳】
心と呼吸は思考と行為という二本の枝。それらは原初の力という一つの根から現れる。

【おおえ訳】
心と気息(プラーナ)は、思考と行為のように相離れているが、それらは一つの根より出たものである。

(注釈)
この詩句はどのようにして呼吸法が心を制御するかを説いている。



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