「四十頌からなる実在」各節紹介 その9

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第22節 】

 マディッ コリ タン ダム マディッ クル オリ ルム
Madik-koli tan-dam madik-kul oli-rum

マディ イナイ ウッレ マダッキ パディ イル
Madi-yinai ulle madakki – padi-yil
  
パディティドゥ ダル アンドリッ パディ ヤイ マディ ヤール
Paditidu-dal andrip padi-yai madi-yāl
  
マディッ ティドゥダル エンンガン マディ ヤーイ マディ イラダール
Madit-tidudal enngan madi-yāi – madi-yiladāl


【 柳田訳 】
心を内部に向け、主の中にそれを固定する以外に、心にとって、心にかれの光を分け与え、心の内部で輝く主を知ることがどのようにしてできるのか。


【 福間訳 】
心の中で輝くのは神の光であり、その光がすべてに光を与えている。
それゆえ、内面に向かい、神の中に融け入らないかぎり、どうして借り物でしかない心の光で、光の中の光を知ることができよう?



【 第23節 】

ナー ネンドリ デーガム ナヴィラー ドゥラッ カットゥ
Nā-nendri dēgam navilā durak-kattu

ナー ニンドレン ドラール ナヴィル ヴァディライ ナー ノンドル
Nā-nindren drāru navil-vadilai – nān-ondru

エルン ダピン エッラー メル ミンダ ナー ネング
Ezhun-dapin ellām ezhu-minda nān-engu

エル メンドル ヌン マディヤー レンナ ナル ヴム
Ezhu-mendru nun-madiyāl enna – nazhu-vum


【 柳田訳 】
この肉体は「私」とは言わない。「眠っているあいだ私は存在しない」とは誰も言わない。ひとたび「私」が現われるとすべてのものが現われる。鋭敏な心でもってどこからこの私が現われるかを探究しなさい。


【 福間訳 】
身体は「私」とは言わない。「眠っている間、『私』は存在しない」と言う人はいない。「私」が現れるとともに、その他すべてが現れ出す。鋭敏な心でこの「私」がどこから現れるのかを探究しなさい。



【 第24節 】

ジャダ ヴダル ナ ネンナードゥ サッチットゥ ウディ ヤードゥ
Jada-vudal na-nennādu satchit udi-yādu

ウダル アラヴァ ナーノンド ルディッ クム イダイイ リドゥ
Udal-alava nānond rudik-kum – idaiyi-lidu

チッ ジャダ ギランティ バンダム ジーヴァ ヌッパ メイ ヤガンダイ
Chit-jada granti-bhandam jīva-nutpa mei-yagandai

イチャム サラ マナム エン ネンネー ヴィチャイ
Ichamu-sara manam enn-ennē – vichai


【 柳田訳 】
活動力のない肉体は「私」とは言わない。存在-意識は生まれない(しなくなりもしない)。肉体と意識のあいだに、肉体の限度に限定された何物かが「私」として現れる。意識と活動力のないものとの間に、結び目(グランティ)として知られているのがこれである。それはまた、束縛、個体的存在、微細身、エゴ、サムサーラ(生死の循環、輪廻)、心としても知られている。これを知れ。


【 福間訳 】
物質である身体は「私」とは言わない。永遠の意識は現れることも消え去ることもない。この二つの間に、身体に限定された「私」という想念が現れる。これが物質と意識の結び目である。これが束縛、ジーヴァ、微細身、自我である。これがサンサーラであり、心である。









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