再入院・手術前所見・・・「対話」と「手紙」 その5


そしていよいよ明日は手術というところまでやってきた。


この間に果たして「膵臓癌との対話」は満足のいくものとなったのであろうか?


それは何とも言い難い・・実際に「リアル対話」なぞできるわけはないので、「これまで考えも及ばなかった領域に、あらたなる視点でアプローチを試みた」というのが実情であり、そういう意味合いでは確かに「いくつかの見解」を得た・・とは言い得るだろう。


☆無自覚的なネガティブコンプレックスの「深部蓄積の場」としての負荷がついにそのキャパシティを超えて、「自己承認欲求」としての細胞の暴走だったのではないか?・・というのがその見解である(それが事実であるか否か?は判別不能)。


しかし全体の流れとしては、「手術による摘出」つまり彼らは「排除」という処置になるわけで、単にそれだけに帰結してしまって良いのだろうか?・・という「倫理的疑念」は払拭できない。


せめて彼らの立場を「大いなる生贄」として送り出す儀式として「摘出手術」を行うのだ・・・というような態度で臨むということが、「倫理的疑念」への回答となりはしないか?


・・というのが現時点における「心理的妥協点」である。


であれば、こちら側?としても彼らの犠牲に見合うだけの?「何かしらの(命がけの)覚悟」が必要となろう・・・そこでふと「献体」という概念が浮かんできた。


もちろん本来のそれは「死後、自分の体を医学研究用に無償で提供すること」であるが、あえて「生前献体?」というつもりで手術を受ける・・という心持ちである。


「手術という営為」自体が「主治医のキャリア蓄積への寄与」ともなるし、摘出された部位組織の献呈にも同意しているし。


そしてよくよく考えてみれば、全身麻酔を実施するわけでこの麻酔が効いている最中は、「通常の意識が活動を停止する」熟睡状態でもあるわけで、「エゴの機能が(一時的にではあれ)」停止する」・・という状態は


これは「ヨーガスートラ第1節」の内容であり、「真我に溶け込む」状態ではないだろうか?


とすれば「膵臓癌」摘出という営為は、彼らが「無自覚的なネガティブコンプレックスの『深部蓄積の場』」として機能していたのならば、それをある種の「生贄」として捧げる(しかも「私というエゴを代表する」形で・・)儀式


でもあるならば、それが伴う「身体的リスク」はこちらが背負うべき性質であろうし、それを認識して手術に臨むならば、「切除される部位組織器官と『同等の立場?』である」・・という視点で、我々は「和解」しうるのではないか?


そして今まさに我が身に振り下ろされんとしているのは、18年前の凶刃ではない。


それは主治医が執刀する手術のメスの形を借りた「不動明王の炎の智剣」ではないのか?


(かって「ラマナから『これで無明を斬りなさい』と、彼の歩行補助用の杖を手渡される」夢をみたこともある→該当ページにリンクは後日実施します)


そして外側のビジョンである「ヤマトアンナマライ」が、内なる聖火の洗礼を受けて「私の本質そのもの」へと変容する・・・可能性があるとしたら、今この私自身が対峙している「バクタの正念場」を通過しない限りは、これまで以上のものは顕現しようがないではないか?


かくして今回の手術は、「この身体的存在は『私』ではない」という命題のリアライズと共に、「真我実現」のまたとない契機であり、


それだけの可能性?を孕んでいる「大いなる『インナージャーニー』」となるかもしれない・・ではないか!!


その6に続く

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