「四十頌からなる実在」各節紹介 その12

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第31節 】

タンナイ アリッ テルンダ タン マヤー ナンダ ルック
Tannai azhit-tezhunda tan-mayā nanda-rukku

エンナイ ウラ ドン ドリヤットル ダルク タンナイ アラードゥ
Ennai ula-don driyattru-darku – tannai-alādu

アンニ ヤ モンドル マリヤー ラヴァル ニライマイ
Anni-yam ondrum ariyār avar-nilaimai

インナ デン ドルンナル エヴァン パラマーッ パンヌム
Inna-den drunnal evan-paramāp – pannum


【 柳田訳 】
自己自身(エゴ)を死滅させ、至福としての自己の本性に目覚めた人にとって、達成さるべき何が残っているのだろうか。彼は自己自身より外に何物をも(存在として)見ない。誰が彼の状態を理解することができるだろうか。


【 福間訳 】
自我を消し去り、真我の至福に目覚めた人にとって、もはや達成すべきことはない。彼は真我以外の何にも気づいていない。誰が彼の境地を理解できようか?



【 第32節 】

アドゥ ニーエン ドラム マライガ ラーッティ ダヴン タンナイ
Adu-nīyen dram-maraigal ārtti-davun tannai

エドゥ ヴェンドル ターン テーンディラードゥ アドゥ ナーン
Edu-vendru tān tērndirādu – adu-nān

イドゥヴァン ドレン ドレンナ ルラ ニンマイイ ナー レンドルム
Iduvan-dren drennal-uran inmaiyi-nāl endrum

アドゥヴェー ターナーイ アマルヴァ ダーレー アドゥヴ マラー
Aduvē-tānāi amarva dālē – aduvum-alādu

【 柳田訳 】
聖典は「汝はそれである」と宣言しているけれども、自分は何かを探究しそれとしてとどまるかわりに、「私はこれではなくそれである」と瞑想することは弱さのあらわれである。というのは人はつねにそれであるから。


【 福間訳 】
聖典は「汝『それ』なり」と宣言している。それゆえ、探究によって真我を見いだし、「それ」として在る代わりに、「私はこれではなく『それ』である」と瞑想することは、心の弱さの表れでしかない。なぜなら、「それ」は永遠に真我として在り続けるからだ。



【 第33節 】

エンナイ ヤリエー ナーン エンナイ アリンデーン ナーン
Ennai Yariyē-nān ennai arindēn-nān

エンナル ナガイッ プ キダ ナーグム エンナイ
Ennal nagaip-pu kida-nāgum – ennai

タナイ ヴィダヤ マーッカ イル ターン ウンドー ヴォンドラーイ
Tanai-vidaya mākka-iru tān-undō vondrāi

アナイ ヴァラヌ ブーディ ウンマイ ヤーロール ニナイ ヴァラヴェー
Anai-varanu būdi unmai-yālōr – ninai-varavē

【 柳田訳 】
「私は真我を実現していない」と言うのも、「私は真我を実現した」と言うのもばかげたことである。なぜか。一方が他方の対象物である二つの自己があるだろうか。それ(真我)は一つであるというのがすべての人の経験である。


【 福間訳 】
「私は真我を実現していない」と言うのも、「私は真我を実現した」と言うのも馬鹿げている。一方が他方を知るという、二つの自己が存在すると言うのか? 一つの真我だけが存在する。それがすべての人の経験の真実である。








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