「教えの精髄」各節紹介その8

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第22節

画像5

ヴィグラヘンドリヤ プラーナディータマハ
vigrahendriya prānadhītamah

         ナーハメカサータッジャダン ヒャサットゥ
         nāhamekasattajjadam hyasat

【柳田訳】
肉体、感覚、心、生気(プラーナ)、無知(アヴィディヤまたはスシュプティ)はすべて知覚力のないもので実在ではない。私は実在(サット)である。これら(鞘)は私ではない。

【福間訳】
身体、感覚、心、呼吸、眠り。これらは生命意識を持たないため、実在ではない。
これらは「私」ではない。「私」が実在なのである。

【おおえ訳】
身体、感官、心、気息(プラーナ)、無知 (アヴィドヤ)はすべて感覚力なきもので、 実在ではない。私は実在(サット)である。これら(鞘)は私ではない。

(注釈)
 第十九詩句では「私」の本源(従ってその本性でもある)を問うことが取り上げられた。ここではこの問いにより深く立ち入っている。私とは何か? この「私の肉体」の外に知覚され るいかなる対象も私ならざるものであり、「私」とは肉体の中に備わったものだという漠然とした感覚がある。それでは私とは手足や体の器官なのだろうか。否。私はそれらを切り取っても存在するし、また眠りや死によってすべての肉体(食べ物の鞘)を失っても依然として私は存在する。それでは私とは気息(プラーナ)だろうか。否。私という意識はたとえ窒息し死んでも維持する。では私とはそれを支配する心と知性(マナスとヴィジュニャーナ)であろうか。否。狂気や病気によって心や知性が奪い去られても人格は生き残る。それでは私とは肉体と心の全機能が休息して、無意識の漠然とした(すなわち無知な)内容のみが残っている夢見もない最も深い眠りの中の安楽あるいは至福の感覚だろうか。否。それでさえない。私は存在し、そして意識があると感じているのだから、「私」は無知な者でも、漠然としたものでもありえない。ではいったい私とは何なのだろう? 「私」とはこれらいっさいの鞘を取り除いた後に残るものである。私とは存在(サット)であるところのもの、私とは意識(チット)であるところのものなのである。至福(アーナンダ)は取り除かれた鞘に本来備わっている快楽と苦痛を超越しているがゆえに、私とはいっさいの快楽や苦痛を後にしたもの、「私」とは至福(アーナンダ)そのものである。


第23節

画像2

サットヴァバーシカー チッヴァヴェタラー
 sattvabhāsikā citkvavetarā

         サッタヤー ヒ チーチッタヤー ヒャハン
         sattayā hi citcittayā hyaham

【柳田訳】
それが存在するのを知る第二の存在はないのだから、「存在するもの」は意識である。私たちはそれである。

【福間訳】
存在する「それ」を知る他の存在はない。それゆえ、存在は意識である。私たちは意識なのである。

【おおえ訳】
存在を知るほかのものはないから、「存在」は意識である。私たちはそれ(意識)である。


第24節

画像3

イーシャジーヴァヨーヴェシャディビダ
 īsajīvayorvesadhibhida 

         サッスヴァバーヴァト ヴァストゥケヴァラン
         satsvabhāvato vastukevalam

【柳田訳】
創造物と創造主は存在の中にある一者である。それらの相違は、それらの知識とその他の属性の程度にある。

【福間訳】
神と個人の魂はその本性において一つである。それらの違いは知性と属性にしかない。

【おおえ訳】
創造物と造物主は二つながら存在の本性において同じであり、一つである。彼らの違いは知恵と属性の差位である。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?