「教えの精髄」各節紹介その9

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第25節

ヴェーシャハーナタハー スヴァーッマダルシャナン 
vesahānatah svātmadarsanam

         イーシャダルシャナン スヴァーッマルーパタハ
         īsadarsanam svātmarūpatah

『柳田訳】
創造物が属性をもたずにそれ自身を見、それ自身を知るならば、それは創造主の知識である。なぜなら創造主は真我以外の何物でもないものとして現われるから。

『福間訳】
すべての属性を消し去った自分自身を見ることは、神を見ることである。なぜなら、神は私たちの真我として輝いているからである。

【おおえ訳】
創造物が属性を捨てて己を見、己を知るなら、それは造物主の知恵である、 造物主は結局真我として現われるから。


第26節

アーッマサムスティティヒ スヴァーッマダルシャナン 
ātmasamsthitih svātmadarsanam

         アーマニルヴァヤーダー マニシュタター
         ātmanirdvayād ātmanisthatā

【柳田訳】
真我を知ることは真我であることである —— 二つの分離された自己はないから。この(状態)はタンマヤ・ニシタ(それとしてとどまること)である。

【福間訳】
真我を知ることは真我として在ることである。なぜなら、真我に二元性はないからだ。これは実在に確立された境地である。

【おおえ訳】
真我を知ることは真我であることである —— 真我に二元はないから。この(境地)はタンマヤ・ニシュタである。

(注釈)
 タンマヤ・ニシュタとは文字どおりには「それとしてとどまる」を意味する。 それとはブラフマン、真の実在である。


第27節

ジュニャーナヴァルジター ジュニャーナヒーナチートゥ 
jnānavarjitā jnānahīnacit

         ジュニャーナマスティ キン ジュニャートゥマンタラン
         jnānamasti kim jnātumantaram

【柳田訳】
それは知識と無知の両方を超越した真の知識である。そこには知られるべき対象は何もない。

【福間訳】
真の知識は知識と無知の両方を超越する。なぜなら、純粋な知識の中に、知られるべきことは何もないからである。

【おおえ訳】
その「知恵」とは知と無知をともに超えた(真の)知恵である。「そこ」には知られるべき何物もない。

(注釈)
 ブラフマンの実現の境地では一が覆い尽くす。そこには「私はこれを知る」、「これを知らない」という観念の入る余地はない。その実現の中には知るべきほかのものは何もない。



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