「教えの精髄」各節紹介その2

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第4節

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カーヤヴァーンマナハー カーヤムッタマン
kāyavāngmanah kāryamuttamam

         プージャナン ジャパースチンタナン クラマーッ
         pūjanam japascintanam kramāt

【柳田訳】
礼拝、呪文を唱えること、瞑想は、それぞれ肉体、声、心によって行われ、この順序に価値が高くなる、これは確かなことだ。

【福間訳】
身体、言葉、心による(※)礼拝、ジャパ、瞑想という行為は、その順に向上する。
※身体、言葉‥‥:身体による礼拝よりも、言葉によるジャパが優れ、それよりも心による瞑想が優れている。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
プージャとジャパとディヤーナは身と口と意によって行なわれ、それらは順次他に勝る。

(注釈)
 プージャとは(身をもって行なわれる)礼拝のための儀式的な所作。ジャパとは(口をもって行なわれる)神の名や聖なるマントラ(真言)を繰り返し唱えることであるが、ここでは讃歌(ストトラ)も含んでいる。ディヤーナとは(意によって行なわれる)黙想であり、ジャパはブー ジャに、ディヤーナはジャパにそれぞれ勝っているのである。


第5節

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ジャガタ イーシャディーユクタセヴァナン
jagata īsadhīyuktasevanam

         アシュタムーティビーッデヴァプージャナン
         astamūrtibhrddevapūjanam

【柳田訳】
人はこの八つの要素(※)からなる宇宙を神の顕現と見なすことができる。 そこで、その中で行われるどんな礼拝も、神の礼拝のようにすぐれている。  
※五つの要素[地・水・火・風・空]、太陽、月、個我から構成される八つの要素。

【福間訳】
土、水、火、風、空、太陽、月、ジーヴァ(個の魂)から成る全世界を神の姿と見なすことは、神への優れた礼拝である。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
八つの要素からなるこの宇宙を神の顕現であると観るならば、いかなる礼拝も神への勝れた礼拝である。

(注釈)
 「八つの要素からなる」とは、宇宙は八つの要素、すなわち地、水、火、風、空の五つの要素と、太陽、月、ジーヴァ(個の霊魂)から成っていることを指す。そして神は全宇宙に遍く彼自身を顕現しているのである。純粋論者や偶像破壊論者は、神を物質や形と正反対のものである純粋精神と考えるあまり、信仰において物質的世界や形象といったたぐいのいかなる考えも避けようとする。しかし現実の事態はどうであろうか。人は神を光という言葉で、あるいは鳩という形で思い描き、また(苦悩を象徴する)イバラの冠をいただいた人として、あるいは力ある慈悲深き父として考える。なぜだろうか。
 霊は物質やその形を通してしか私たちには知られないのである。霊はただ霊の視覚を通してしか見ることができない。想念は物質的形象を通して、あるいはその中でのみ現われることができる。そのため象徴や擬人的表現を用いざるを得ないのである。人間の知力は形なき霊のことを考えるのに、形をわずらわさざるをえない。 そこで信仰における形象の使用が遍く行なわれる。このような形象の用い方を見境いなく非難することはただ無知と狭量さを晒すばかりである。
 人々は、とりわけ宗教の世界では、自己表現のために形や象徴を必要とするし、 全知全能の慈悲深き神はそのように表現された帰依を受け入れて下さることは確かである。賢明な師や指導者やグルは帰依者の心が、帰依の実践やその過程の中で、狭く限られた知覚や礼拝に用いられるささやかな形象や物から神の霊的本性、すなわち無碍性や他の大いなる属性の直観へと向かうよう配慮するはずである。
 採用される実修の過程は非常に多様である。それらには祈り(アヴァハナ)や、礼拝の対象やその場所に「神を現前させる実修」などがある。 (他人には単なる物にすぎなくとも)信者にはまこと霊であり、神と感じられるのである。
 熱意ある帰依者はこのような崇拝を実践している間も、神は全宇宙のあらゆるところに内在していると考え、もしくは考えねばならない。そしてもし神の存在をほんとうに自覚するならば、 全宇宙(ヴィラト・ルーパ)やその部分(聖者や神像)への礼拝は明らかに神自身への帰依(であり、帰依の理想的な形)なのである。
 礼拝を真正のものとし、神に到るためには、神との共存や一致、すなわち(神秘的な畏れである)畏怖や畏敬の念あるいは愛などを伴った(それらが強められると合一の黙想に帰する)神の生き生きとした現前の感覚がなければならない。このような没入によって人は崇拝し愛するところのものとなる。究極的な分析をするならば、彼はただ観念や意識の状態にすぎず、礼拝の対象もまた同様である。熱烈な黙想と没入は二つを一つに同化、融合する。そしてすべての礼拝の対象は至福に満ちた一者に融合してゆく。



第6節

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ウッタマスタヴァードゥッチャマンダタハー
uttamastavāduccamandatah

         チッタジャン ジャパーディャーナムッタマン
         cittajam japadhyānamuttamam

【柳田訳】
かれの名の朗唱は、賛歌よりすぐれている。なおいっそうすぐれているのは、そのかすかなつぶやきである。しかしもっともすぐれているのは、  心の中での唱名であり、それはさきに言及した瞑想である。

【福間訳】
声高らかな神への賛歌よりも、
静かな声の称名が優れるが、
最も優れた瞑想は心の中での称名である。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
神の名やマントラ(真言)の声高らかな唱名は讃歌より勝れ、やがてその声はハートの中での静かな唱名となる、こうして瞑想が学ばれる。

(注釈)
 神の名やマントラ(真言)を唱えることは、時として心の気を散らしてしまう美しい讃歌よりも、集中には有益である。集中が深くなるに従って、声はしだいに内へと沈潜してゆく。そして沈黙がすべてをおおい尽くす。
 「瞑想」は別の存在としての、あるいは己の最も内なる髄としての(人格的あるいは非人格的な)神に向けられる。



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