「四十頌からなる実在」各節紹介 その10

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第25節 】

ウルッ パットリ ウンダー ムルッ パットリ ニル クム
Urup-pattri undām urup-pattri nir-kum

ウルッ パットリ ウンドゥ ミガ オーングム ウル ヴィットゥ
Urup-pattri undu-miga ōngum – uru-vittu

ウルッ パットルン テーディ ナール オーッタム ピデッ クム
Urup-pattrun tēdi-nāl ōttam pidik-kum

ウル ヴァットラ ペーイ アガンダイ オールヴァーイ カル ヴァーム
Uru-vattra pēi-agandai ōrvāi – karu-vām


【 柳田訳 】
形(すなわち肉体)をとると、この形のないエゴの幽霊は存在するようになる。形をとるとそれは存続する。形をとるとそれは食べ(経験し)成長する。一つの形を捨てるとそれは他の形をとる。しかし捜し求められるとそれは逃げていく。これを知れ。


【 福間訳 】
形(身体)をとらえることで、それは現れる。形をとらえて養うことで、それは成長していく。一つの身体を離れたとたん、それは別の身体をとらえる。だが、探し出そうとすると、それは逃げ出してしまう。これが姿なき自我という幽霊の特徴である。



【 第26節 】

アハン ダイ ウンダー イン アナイッ トゥ ムンダー グム
Ahan-dai undā-yin anait-tum undā-gum

アハン ダイ インドレー リンドラ ナイットゥム アハン ダイエー
Ahan-dai indrēl indra-naittum – ahan-daiyē

ヤーヴ マー マーダ ラール ヤーディ デンドル ナーダレー
Yāvu-mām āda-lāl yādi-dendru nādalē

オーヴ ダル ヤーヴ メナ オームダル ポール メーヴ ミンダ
Ōvu-dal yāvu-mena ōrmudal-pōl – mēvu-minda


【 柳田訳 】
もしエゴがあれば、他のすべてのものもある。もしエゴがなければ、他のものは何もない。確かにエゴはすべてのものである。それゆえそれが何かと本当に探究することは、すべてのものを放棄することを意味する。これを知れ。


【 福間訳 】
自我が現れると、すべての事象が現れ出す。自我が存在しなければ、何も存在しない。自我がすべてであるため、「自我とは何か?」と問えば、すべては消滅する。



【 第27節 】

ナー ヌディヤー ドゥッラ ニライ ナーマドゥ ヴァーイ ウッラ ニライ
Nā-nudiyā dulla-nilai nāmadu-vāi ulla-nilai

ナーヌディッ クム スターナ マダイ ナーダー マル ナーヌディ ヤー
Nānudik-kum stāna-madai nādā-mal – nānudi-yā

タンニラッ パイ チャーヴァ デヴァン チャー ラーマル ターナドゥ ヴァーン
Tannizhap-pai chārva-devan chā-rāmar tānadu-vān

タンニライ イル ニルパ デヴァン チャーッ トルディ ムンナル
Tannilai-yil nirpa-devan chāt-trudi – munnar


【 柳田訳 】
「私」が現われない状態が「それ」として存在する状態である。「私」が現われてくる場所を捜し求めることなしに、どのようにして人は、「私」の現われないことによって特徴づけられる自己自身の消滅をもたらすことができるだろうか。その消滅をもたらすことなしに、どのようにして人は、その中では人がそれである真の状態にとどまることができるだろうか。


【 福間訳 】
「私」が現れないとき、我々は「それ」として在る。どこから「私」が現れるかを見いだすことなしに、どうして「私」の現れない無我の境地に到達できようか? 無我の境地に到達することなしに、どうして「それ」である真我の境地にとどまれようか?









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