「教えの精髄」各節紹介その3

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第7節

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アージャダーラヤー スロタサー サマン
ājyadhārayā srotasā samam

         サララチンタナン ヴィララター パラン
         saralacintanam viralatah param

【柳田訳】
そのような断続的な思考(瞑想)よりいっそうすぐれているのは、油か夏涸れのない流れのような、間断のない連続した瞑想である。

【福間訳】
断続的な瞑想よりも、流れる油や川のように、途切れることなく続く瞑想が優れている。

【おおえ訳】
気まぐれに繰り返される瞑想よりも、乳酪の流れのように間断なき絶えざる瞑想こそが勝れている。


第8節

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ベダバヴァーナーソハミッティャソー
bhedabhāvanātso’hamityasau

         バーヴァナビダー パーヴァニー マター
         bhāvana‘bhidā pāvanī matā

【柳田訳】
「私はかれである」という高邁な態度は、「かれは私ではない」という態度より望ましい。

【福間訳】
「神と私は異なる」という観点からする瞑想よりも、「神は私である」(※)と瞑想するほうが優れている。
※「ソーハム」(Soham「彼は我なり」)というマントラに瞑想すること。

【おおえ訳】
「彼は私である」という高遠なあり方は「彼は私でない」というあり方よりも望ましい。

(注釈)
 サンスクリット語のソーハン、「彼は私である」はよく知られた表現である。これはアドヴァイティン(不二一元論者)が、一人称として語られる(私)と三人称(彼)の合一と一致を指し示す場合に用いられる。従って二人称者と宇宙の万象もまた、アドヴァイティンがしばしばブラフマン――すなわち万象の背後に存する実在――を指し示すために使う言葉、「彼」あるいは「それ」とみなされる。このようにソーハンはアドヴァイタの実修で鍵となるマントラであって、このマントラに断え間なく瞑想することは自己を宇宙の霊魂あるいはブラフマンと同一化するのを助けよう。その自己同一性あるいは融合はアドヴァイタの考えるところのムクティ(解脱)あ るいは救済である。
 ソーハン、すなわち「彼は私である」とハンサ「私は彼である」は、ドヴァイティン(二元論者)が神との親密な融合のうちに帰依者が己を忘れるという帰依の強烈さを表現するために用いられ、それはちょうど河が海に流れ込み、塩が水に融け込むことにたとえられるが、これはムクティの二元論的な捉え方である。ゴーピは情熱的なクリシュナへの愛情から己をしばし忘れ、自分はクリシュナであると宣言した。同じことがゴーランガにも起こった。
 比較することは、特にそれらが異なった宗派間の教えや尊重されるべき行法であれば、しばしば好ましからざることだといわれる。それゆえマハリシが、ドヴァイティン(二元論者)も帰依における人格的要素の堅持も非難していないことは指摘されるべきであろう。マハリシはアルナチャラ、すなわち光の丘への帰依から出発し、幾つかの讃歌を書いている。人格を論理的に分析することは、明らかにその人を他から分別することを意味する、だが、こうした分別を滅却するための礼拝の人格の取り扱い方、アクシャラマナマライもある。
 二元論者はまた、先にあげた例に見られるように「無分別」に非常に高い価値を与えている。人格的崇拝の低い形への反対理由は、それらが(一)中断(ニ)混濁(三)条件付けを含んでいることによる。これらのいずれの反対理由もあてはまらないものは、二元論者による崇拝でさえ無分別の形の中にあり、非常に勝れたものである。
 「彼は私ではない」というあり方は、 実際、どんな教義を信奉しているにせよ、間違いなく二元論者である通常の帰依者のものである。彼らの精神構造は初期の段階では、神や己の人格を尊重するよう彼自身を導く。しかしこれらの内のあるものは、遺伝の力やグルの教えによって、初期においてさえ、彼らの心の背後にアドヴァイタの目的地を持っている。そして示唆の力によって、彼らは最終的には、元の人格神から神と己の人格を超越した非人格的帰依へと移行する。この過程は次の詩句で扱われる。

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第9節

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バーヴァシュンニャサーッバー ヴァシュスティティヒー
bhāvasūnyasad bhāvasusthitih

         バーヴァナーバラーッ バクティルッタマー
         bhāvanābalād bhaktiruttamā
 
【柳田訳】
熱烈な帰依によって、実在の中にとどまり、すべての想念を超越することは、至高のバクティの精髄そのものである。

【福間訳】
強烈な瞑想によって、想念のない実在の境地にとどまることが、至高の帰依である。

【おおえ訳】
熱烈な帰依によって、いっさいの思考を超えた実在にとどまることは、至高のバクティ(献身)の精髄である。

(注釈)
 「バクティ」とは信仰もしくは献身のことである。思考は考える主体、思考の対象、考える過程を含み、それらはトリプティとして知られ、思考の明確な三要因として受け取られている。超脱の至高の到達点はこの三要因を超越し、二者(創造物の魂と創造主)を超越して一者の内に入る。マハリシはこの詩句と前詩句において二つのもの、バクティとジュニャーナ、すなわち献身と知恵を結びつけている。これらはそれらの道のりの終極においては同一のものと見えるため、マハリシはしばしばバクティはジュニャーナであり、ジュニャーナはバクティであると語る。これはシャンカラチャリヤのバクティの定義によって明らかにされた真理である。
 
 「真我の本性への集中はバクティであるとある者はいい、またある者はそれはアートマン(真我)の真理への集中であるという」(『ヴィヴェーカチュダマニ』)
 
 この二つの詩句でマハリシは、自分と神との相違の自覚を持って帰依を始める人が、熱烈な状態の中で、どのようにしてその相違性を失くして、無分別の境地に達するかを明らかにしている。それこそジュニャーナであり、至高の献身の精髄である。




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