「教えの精髄」各節紹介その6

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第16節

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ドゥリッシャヴァーリタン チッタマーッマナハー
drsyavāritam cittamātmanah 

         チッヴァダルシャナン ダッヴァダルシャナン
         citvadarsanam tattvadarsanam

【柳田訳】
心が外部の感覚対象から引き下がり、それ自身の光り輝く形を見つめる(すなわち、神秘的な内観に従事する)とき、それは真の知恵である。

【福間訳】
心が外的な対象を手放して内に向かい、それ自身の輝ける姿を見るなら、それが真の叡知である。

【おおえ訳】
心が外界の感覚対象から内に向かい、それ自身の輝ける姿を見つけるなら、それは真の知恵である。

(注釈)
 学習は知恵と混同されてはならない。過度の学習は体にとっては倦退になるし、気を散らせば心の平静は妨げられる。だが知恵はそうではない。知恵には満ち足りて飽きるということがない。学習は外的なものを学ぶことで占められている。もし全世界について学び、それを手に入れたとしても、自分自身について学び、支配することがないとしたら、何の益があるというのか。 世界について真の知識を得るためにも、自分自身について知らなければならないのである。真我を知ることは人間の重要な務めであり、権利であり、それは知恵である。これは常識であり、哲学の知恵である。
 この詩句は非常に重要である。マハリシはここで宗教の心理学的側面や哲学的側面を説いているのではないが、彼の説くところはそれらと密接に結びついている。科学や哲学を学ぶためには既知の科学的方法に基づいて、観察と実験によって探求し、実験的な仮説を立てて、既知の事実に適合するかどうかを検討して仮説を修正したり発展させたりしなければならない。
 一方、マハリシはここでは違う方法をとる。インドの古代の神秘家、リシは彼ら独特の科学的な探求を行ない、自らの望む結果に達するため彼らの結論を適用した。求められるべき目的地とは至福、すなわちうちから湧き出て人間の本質を形作る無上の至福であった。そしてそれに用いられた方法とは神秘的洞察であり、これは明らかに自己と神と宇宙に関する特定の心理学的哲学的直観に根差したものであった。無上の至福とはサット・チット・アーナンダとして語られる宇宙と自己の本体、実在なるものに帰入することである。この実在への到達の過程は当時の科学観に従って成立したある心理学的哲学的見解を持っていた。これらの見解の科学的正確さについては検討の余地があろうし、おそらく反駁されるものであろう。それでもなお、古代の賢者達した神秘的な至福に満ちた境地は、現在においても、また将来においても、当時と全く同様に達し得るものなのである。 第十七詩句は神秘的洞察の過程で用いられるある見解を扱っている。これを読むとき、一般の読者はもし神秘的成就の至福を熱心に求めるのであれば、現代哲学や心理学の理論との関係とか、哲学や心理学がこの洞察を論証するか反駁するかあるいは判断を中止するかといった疑問に惑わされてはならない。
 たとえこの見解に多少矛盾があるとしても、伝統的手段に従ったこの古代の見解によって生み出される確かな至福体験自体は何ら影響を被ることはない。私たちはここで真我の心理学あるいは真我の哲学を現代的方法に従って扱っているのではなく、至福、すなわち自己の本性を発見するために適用される ー 心理学と哲学の要素を含む ー 特別の技術を扱っているのであるということを心にとどめておくことは、学識ある読者にとって重要なことである。その技術は人間とその環境の根本的本性が現在もそして、私たちの見る限り、永遠に、善であることに基づいている。


第17節

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マーナサン トゥ キン マールガネクルテー
mānasam tu kim mārgane krte

         ナイヴァ マーナサン マールガ アージャヴァートゥ
         naiva mānasam mārga ārjavāt

【柳田訳】
心が絶え間なくそれ自身の本性を探究するならば、心のようなものはないことが明らかになる。これがすべてのものにとって直接の道である。

【福間訳】

心が絶え間なく自身の本性を探究するなら、心と呼べるようなものはないことが知られる。これがすべての人にとって直接の道である。

【おおえ訳】
心が絶え間なくそれ自身の本性を熟考するなら、心のようなものはないということが知られる、これがすべてのものにとっての正道である。


第18節

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ヴリッタヤスヴァハン ヴリッティマーシュリターハ
vrttayastvaham vrttimāsritah

         ヴリッタヨ マノ ヴィッディャハン マナハー
         vrttayo mano viddhyaham manah

【柳田訳】
心はただ想念にすぎない。すべての想念の中で「私」という想念が根元であ
る。(それゆえ)心はただ「私」という想念にすぎない。

【福間訳】
心は想念にすぎない。すべての想念は「私」という想念に依存する。それゆえ、心とは「私」という想念にすぎない。

【おおえ訳】
心は想念にすぎない、いっさいの想念の中で「私」という想念がその源である。(それゆえ)心は「私」という想念にすぎない。

(注釈)
 「私」という想念は自我、自己意識、 アハンカール、あるいはその者の人格の感覚として知られている。「想念」は知的現象を意味している。いかなる想念が生じるときにも「この想念は誰に湧き起こって来たのか?」「誰がこれを考えているのか?」と問いかけることによってその根源を探求せよ ― 答えは「私」という者である。考える者なくして想念はありえない。それゆえ、考える者 「私」は想念の源なのである。



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