「教えの精髄」各節紹介その7

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


第19節

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アハマヤン クト バヴァティ チンヴァタハー
ahamayam kuto bhavati cinvatah 

         アイ パタッティャハン ニジャヴィチャーラナン
         ayi patatyaham nijavicāranam

【柳田訳】
「どこからこの『私』が現われるのか」。それを内部に捜しなさい。そうすればそれは消滅する。これが知恵の探究である。

【福間訳】
この「私」はどこから立ち現れるのか?と内面を探れば「私」は消滅する。これが叡知の探究である。

【おおえ訳】
この「私」はどこから湧き起こるのか? これをうちに求めよ。 するとこの「私」は消滅する、これが知恵の探求である。

(注釈)
 自分自身に向ける次の問いは「この私は誰か?」というものである。それはいかなる本質を持つのか、(原因ある者か、原因なき者か、有限か、無限か?)それはどこから生じるのか?  内観によってこの私という思いがどこからどのようにして発するのか見ようとしてみよ。その結果は、この私という思いを抱いていた明確な個人としての私、問いを発する前に現われていた私は消滅し、もはや何もないかのようである。
 ここで読者はふと我に帰り、「この果てしない自殺はいったい何であろうか?」と自問する。
 マハリシの言葉では、自我は火葬のときに死体を火葬の焔(ジュニャーナ・ヴィチャーラ、知恵の探求)の中に押し込むのに用いる棒のようなものであり、それ自身も先端から同じ炎で焼き尽くされてしまうのである。それでは私たちは完全に消滅してしまうのであろうか。そんなことがありうるだろうか。
 私たちはこの疑問への解答を次の詩句に見いだす。次の詩句は、単なる現象的存在である他のいっさいが変化し流れ去らねばならないとしても、唯一の根本的実在は常にとどまっているという―すなわちこの地上的な争いの喧騒、輪廻から解き放たれたいと望む人は唯一なる実在、純粋なるアートマン、あるいはブラフマンを認識し実現することによって自己の内なる堅固な砦に引きこもらねばならないという―『バガヴァッド・ギーター』 Ⅱの15に語られている真理を私 たちに再保証している。

第20節

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アハミ ナーシャバージャハマハンタヤ
ahali nāsabhājyahamahamtaya

         スプラティ フィトゥスヴァヤン パラマプールナサットゥ
         sphurati hrtsvayam paramapūrnasat

【柳田訳】
「私」が消滅するところに「私―私」がひとりでに姿を現わす。これは無限なるもの(プルナム)である。

【福間訳】
「私」が融け去るところに、真我は自ずと「私—私」として現れる。それが無限なる至高の存在である。

【おおえ訳】
「私」が消滅するところに、自から「私は私」が現われる。これは無限者(プールナム)である。

(注釈)
 それならば個人の人格の感覚が失われた後には空白が残るだけなのだろうか。否。 この顕現である「私」と他のいっさいの非実在の顕現の背後にある唯一の超感覚的存在、すなわちブラフマン(プールナム―無限者)が「私」に取って代わって現われ、個体としての「私」だけでなく、いっさいを覆い尽くすのである。従ってそれは個と普遍の融合、あるいは合一を指し示す。「私は私」という表現によって示される。それは消滅を意味するのだろうか。否。
「露の滴は輝ける海に落ち、その小さなきらめきは永遠の光輝に融け入る。」

第21節

名称未設定2

イダマハンパダービッヒャマンヴァハン
idamahampadā‘bhikhyamanvaham


         アハミリーナケピャラヤサッタヤー
         ahamilīnake’pyalayasattayā

【柳田訳】
これはいつも「私」という用語の真の重要性である。なぜなら、目覚めた「私」がいない最も深い眠りの中でさえ、私たちは存在することをやめないのだから。

【福間訳】
「それ」が「私」の真の意義である。なぜなら、「私」という感覚のない眠りの中でさえ、私たちは存在しているからである。

【おおえ訳】
これは「私」という言葉がいつも真に重要であるということである。というのは目覚めた「私」のいない深い眠りの中でさえ、私たちは存在することをやめないから。

(注釈)
 「私」という言葉は一般に目覚めた意識を持つ者という意味で用いられる。 しかし深い眠りの中でさえ、意識は持続している。だから人は目覚めたとき、「しばらくぐっすり眠っていたんだな」と気づくのである。これは目覚めた意識を超越したより広大に広がる「私」がなければ考えられないことである。このように考えてゆくと「私とは何か」を見つめることによって、人は真の根源、すなわち本性としてのアートマン=ブラフマンに到達する。
 ところでこの詩句の主題は「ウパニシャッド」では、スシュプティ −−− 深い眠りを扱う個所に散見される。数か所でこの眠りは純粋意識、完全な真我の実現の状態と等しいものとして扱われている。しかし多くの権威者も、深い眠りとはつまるところ、無知に覆われた個別の魂の一状態ではあるが、意識の三つの状態のうちでは最も幸福な意識であり、真我の実現に最も近い入口であることを認めている。真我の実現の状態ではいっさいが純粋意識である。そこではもはやいかなる無知もなく、それは一つの状態と呼びうるようなものでもない。というのは真我の実現とは、人や対象と彼や物の状態の間に、あるいは属性と実体の間に、また知ることと存在 −−− すなわち知る者と知られる者の間にい
 深い眠りの中では、ジーヴァ(個魂)は著しくかすかになり、ちょうど芯が短くなり炎がゆらめき、今にも消えそうな寝室の燈火のようなものである。 それはほとんど意識されることないが、それでもやはりそれはそこにある。触れようものなら蛇のように身をほどき、燃えさかる炎を拡げる。それは楽しみとわずかな記憶とそれ自身の好みの力を持っており、ある刺激に対しては他のものより敏感に反応する。
 確かに眠りは最も低いサマーディの状態にあるが、その中では魂は実在へと到るある形態 −−− もちろんそれはアドヴァイティンのサマーディ、すなわち完全なる解説と同じであるサイジャ・ ニルヴィカルパ (倶生無分別)にははるかに及ばないものであるが −−− に融け入っている。ここで主題になっていることは、人々が「私」という言葉やそれによって示される想念を用いるときは、いつでもその背後にブラフマンが潜在しているということである。目覚めている人が「私はこれをなし、こう考えた。」とか「私は戦いに勝った」などといっているときも、それはいわば背後で笑っているのである。そして時おり、個人や神々にかかわる誤りを明示するかもしれない。
 これは目覚めているときの「私」に当てはまるだけではない。夢見の状態でも「私」は現われる。それは目覚めているときや長らく忘却していた経験の記憶の無秩序な複製である。夢見の状態においてさえ、「私」とはブラフマンを背後にした仮面にすぎない。深い眠りでも「私」は引き続き持続するけれども、 非常に希薄化した形においてである。それはあまりに希薄なため、それを何とか説明しようとしても、不正確ながら自我を欠いた状態とでも描写するほかはない。そしてその自我とは見せかけであって、実在ではない。それはあたかも至福であるかのようだが、知恵の欠如とその短い寿命からしてその正体はペテン師であり、実在者なるブラフマン=アートマンではないことがわかる。アートマンはすべてを知っているが、深い眠りの「私」はほとんど何も知らない。それゆえマハリシはこれらを要約して次のように語っている。
 「常に『私』の背後に、すなわち三つの状態の中に潜む実在とは、この『私』、純粋で完全な意識である。」
 右の事実から当然の帰結が引き出される。『プリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』には、対象、たとえば息子や妻などが私たちをひきつけるのは、魅力や愛する能力が私たちの背後に潜むアートマン=ブラフマンの本性だからであると語られている。



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