「四十頌からなる実在」各節紹介 その5

いずれ「オンライン・ラマナ・サットサンガ」の詠唱用コンテンツとして配信予定の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第10節 】

アリ ヤーマイ ヴィッタリ ヴィン ドラム アリヴ ヴィッタヴ
Ari-yāmai vittari-vin dram-arivu vittav

アリ ヤーマイ インドラー グム アンダ アリヴム
Ari-yāmai indrā-gum anda – arivum

アリヤー マイユ マールッケン ドラム ムダラーン タンナイ
Ariyā maiyum-ārkken dram-mudalān tannai

アリ ユム アリヴェー アリ ヴァーム アリバ
Ari-yum arivē ari-vām – ariba


【 柳田訳 】
無知を離れて知識はないし知識を離れて無知はない。この知識と無知をもっているのは誰か。両方の基礎である真我を知る知識が本当の知識である。


【 福間訳 】
無知がなければ知識はありえず、知識がなければ無知もありえない。
「この知識は誰のものか?」、「この無知は誰のものか?」と尋ねることで原初の真我を知ること、それこそが真の知識である。



【 第11節 】

アリ ヴルン タンナイ アリヤー ダヤライ
Ari-vurun tannai ariyā dayalai

アリヴァ ダリ ヤーマイ アンドリ アリヴォー
Ariva dari-yāmai andri – arivō

アリ ヴァヤル カーダーラ タンナイ アリヤ
Ari-vayar kādāra tannai ariya

アリ ヴァリ ヤーマイ アルメー アラヴェー
Ari-vari yāmai arumē – aravē


【 柳田訳 】
知識の源である真我を知ることなく、その他のすべてを知ってもそれは無知ではないだろうか。それは知識でありうるだろうか。知識と知識の対象の基礎である真我が知られたとき、無知と知識は存在することをやめる。


【 福間訳 】
真我を知らずに他のすべてを知ることは、知識ではなく無知でしかない。
知識と無知の根底にある真我が知られれば、知識も無知もともに消え去る。



【 第12節 】

アリ ヴァリ ヤーマイ ユム アットラ ダリ ヴァーメー
Ari-vari yāmai-yum attra-dari vāmē

アリ ユマ ドゥンマイ アリ ヴァーガードゥ アリ ダルク
Ari-yuma dunmai-ari vāgādu – ari-darku

アリ ヴィッタル カンニヤ ミン ドラーヤ ヴィルヴァ ダール ターン
Ari-vittar kanniya-min drāya-virva dāl-tān

アリ ヴァーグム パーラン ドラリ ヴァーイ セリ ヴァーヤ
Ari-vāgum pāzhan drari-vāi – seri-vāya


【 柳田訳 】
知識でも無知でもないものが(本当の)知識である。(対象の)知識は本当の知識ではありえない。知るべきあるいは知られるべき他の何物も存在することなしに、光り輝く真我が知識である。それは無ではないことを知れ。


【 福間訳 】
知識も無知もない境地を真の知識という。
対象物に関する知識は真の知識ではない。
真我にとって他に知るべきことなどなく、真我を知る他者など存在しない。
真我は光輝く知識であって無知ではないからである。








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