「四十頌からなる実在」各節紹介 その4

いずれ「オンライン・ラマナ・サットサンガ」の詠唱用コンテンツとして配信予定の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第7節 】

ウラガリ ヴム オンドラーイ ウディッ トドゥング メーヌム
Ulagari-vum ondrāi udit-todungu mēnum

ウラガ リヴ タンナール オリルム ウラ ガリヴ
Ulaga-rivu tannāl olirum – ula-garivu

トーンドリ マライ ダルキダ ナーイ トーンドリ マライ ヤー ドリルム
Tōndri-marai darkida-nāi tōndri-marai yā-dolirum

プーンドラ マー マーデ ポル ラーマール エーンドラ ダーム
Pūndra-mām ahde poru-lāmāl – yēndra-dām


【 柳田訳 】
世界とその自覚は同時に生じ同時になくなるけれども、世界は自覚によって知覚される。その中で世界とその自覚が生じたりなくなったりするそれは、生ずること(もなくなること)もなく輝く充満したもの(プルナム)である。


【 福間訳 】
世界は心とともに現れ、ともに消え去る。
世界は心の光によって輝く。
世界と心がそこから現れ、そこへと消え去る源、それは現れることも消え去ることもなく永遠に輝く。
それが実在である。



【 第8節 】

エッパ ヤリ テッヴ ルヴィル エーッ ティヌマール ペー ルルヴィル
Yeppa-yari tevvu-ruvil yēt-tinumār pēr-uruvil

アッポ ルライ カーン ヴァリヤ ダーイヌ マム メイッ ポルリン
Appo-rulai kān-vazhiya dāyinu-mam –– meip-porulin

ウンマイイル タン ウンマイ イナイ オーンド ドゥンギ オンドル ダレー
Unmaiyil-tan unmai-yinai ōrndo-dungi ondru-dalē

ウンマイイル カーナル ウナルン ディドゥガ ヴィンマイ
Unmaiyir kānal unarn-diduga –– vinmai


【 柳田訳 】
どんな名と形によって人が名と形をもたないそれに礼拝しようとも、それはそれを知覚する手段にすぎない。真の実在として人の真我を知り、それに溶け込んで一つになることが、唯一の真の知覚(実現)である。これを理解せよ。


【 福間訳 】
いかなる名前や形を礼拝しようとも、それは名前も形もない「絶対なるもの」の知識へと導く。
しかしながら、「絶対なるもの」の中に真の自己を見、その中に没入し、それと一つになることこそが、真理の知識である。



【 第9節 】

イラッタイ ガル ムップ ディガル エンドル モンドル パットリ
Irattai-gal muppu-digal endrum-ondru pattri

イルッ パヴァーム アヴヴォン ドレー デンドル カルッ ティヌル
Irup-pavām avvon-drē dendru – karut-tinul

カンダール カラル マヴァイ カンダー ヴァレ ウンマイ
Kandār kazhalu-mavai kandā-vare unmai

カンダール カラン ガーレー カーニルル ポーン マンドゥム
Kandār kalan-gārē kānirul-pōn – mandum


【 柳田訳 】
二元性と三元性は常に一者に依存している。もし人が自己の心の内部でその一者が何であるかを理解するならば、二元性や三元性は消え失せる。これを理解したものだけが真理を理解したのである。それを知れば彼らは決して動揺することはないだろう。


【 福間訳 】
「二元性」や「三位」※3は自我に依存している。
「この自我とは何か?」と尋ね入り、それを見いだせば、「二元性」も「三位」も消え去る。
これを見いだした人だけが真理を知る。
彼らが心惑わされることは二度とない。

※3 「二元性」:主体と対象などの相対性。「三位」:見る者、見られるもの、見ることなどの三組。









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