「四十頌からなる実在」各節紹介 その15

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズ最終回です。


【 第39節 】

バッダ ナーン エンヌ マッテー パンダ ムクティ チン タナイガル
Bhadda-nān ennu-mattē bhanda-mukti chin-tanaigal

バッダ ナーレン ドルタン ナイッ パーッ クンガール シッダ マーイ
Bhaddan-āren drutan-naip pārk-kungāl – siddha-māi

ニッタ ムクタン ターニルカ ニルカーデール バンダ チンダイ
Nitta-muktan tānirka nirkādēr bhanda-chindai

ムクッティ チンダイ ムン ニルクモー マナッ トゥック オッターン
Muktti-chindai mun-nirkumō manat-tukku – ottāngu


【 柳田訳 】
束縛と解放の想念が存続するのは、「私は束縛されている」という想念が存続する限りにおいてだけである。「束縛されているのは誰か」という探究によって人が自己の真我を見る(実現する)とき、いつまでも達成されたままであり永遠に自由な真我だけが残る。束縛の想念は残らない、したがって解放の想念がどのようにして残ることができるのか。


【 福間訳 】
「私は束縛されている」と感じているかぎり、束縛と解放という観念は続いていくだろう。「束縛されている私とは誰か?」と探究すれば、常に自由で、永遠に輝く真我だけが残る。束縛という観念が消え去れば、自由という観念も消え去るのだ。



【 第40節 】

グウルヴァム アルヴァム ウルヴァル ヴァム ムーン ドラーム
Uruvam aruvam uruvaru-vam mūn-drām

ウル ムクティ エンニル ウライッ パン ウル ヴァム
Uru-mukti ennil uraip-pan – uru-vam

アル ヴァム ウルヴァル ヴァム アーユム アハンダイ
Aru-vam uruvaru-vam āyum ahandai

ウル ヴァリダン ムクティ ウナ リードゥ アルル ラマナン
Uru-vazhidan mukti una-rīdu – arul Ramanan


【 柳田訳 】
もし解放には三つの種類、すなわち、形をもつもの、形をもたないもの、形をもつもたないの区別のないもの、があると言われているとすれば、われわれは言う、解放とは形をもつか形をもたないか、あるいは形をもつもたないの区別がないかの議論をするエゴの消滅であると。


【 福間訳 】
「身体をともなったもの、身体をともなわないもの、身体のあるなしにとらわれないもの、この内のどれが真の解放か?」と問われたなら、私はこう言う。「解放とは、身体をともなったもの、身体をともなわないもの、身体のあるなしにとらわれないものといった議論をする自我の消滅である」と。


ウッラドゥ ナールパドゥム オンドル カリ ヴェンバー ヴァーム
Ulladu nārpadum ondru-kali venbā-vām

ウッラドゥ カーットゥム オリ
Ulladu kāttum oli.












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