「教えの精髄」各節紹介その1

「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムAで詠唱されている、「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」の概要解説&各節紹介シリーズです。

第1節

ウパディシャサラム 1節


カットゥ ラーニャヤー プラーピャテ パラン
kartur-ājnayā prāpyate phalam
         
         カルマ キン パラン カルマ タッジャダン
         karma kim param karma tajjadam

【柳田訳】
行為(カルマ)は(行為の中に)果実を生む。何故なら創造主がそのように定めたのだから。しかしそれは神なのか。(そうではありえない、何故なら)それは知覚力のあるものではない。

【福間訳】
行為の結果は神によって定められている。カルマでは、行為とは神なのか? いいや。行為に生命意識はないからだ。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
カルマ (行為)は果(結果)を生む。というのは、そのように造物主が定めたから
ではカルマは神か?  いやそれは感覚力のあるものではない。

(注釈)
 カルマ(行為あるいは業)の教えは次のようにいわれてきた。
 「意志(意)や言葉(口)や行為(身)におけるあらゆる経験は道徳的原因として働き、なされた行為の本性に従って、一定の果報もしくは罰をもたらす。またこの道徳的な力は、その人の来世にも影響する。(H・D・バッタチャリヤーカルマの教理の変遷」参照。)
 カルマの教えはこのように道徳的、宗教的なものであるから、それらを含まぬ
「機械的な行為には当てはまらない。
 マハリシはカルマという言葉を経典が定め、認めた行為、あるいは禁じている行為を指す場合のみに用いた。カルマの教えは、インド哲学では、主として社会の内に見られる説き難い不平等を説明するために用いられてきた。すなわち善人が明らかにいわれなき苦しみや悲しみを被り、悪人が不当な喜びや満足を享受しているという不条理の説明が過去世になされた行為に関係するものとしてなされるのである。こうしてカルマの教えは輪廻の教えと密接に結びつけられている。
 カルマの教えは非常に限られた範囲で、あれこれの目的に用いられている。しかしこの限界を無視してカルマの力をはなはだしく誇張し、カルマを盲目的に信奉する人々がいる。既に述べたようにあるミーマーンサー派のリシたちはただ自分を満足させるため、一時的な利益を熱望して伝承された「ヴェーダ」の祭儀を用いてそれらを得ようと望んだ。神(あるいはマハーデー ヴァとマハー・ヴィシュヌ)は天から降臨してその儀式と供儀の完成を妨げて、人間の営為を越えて彼らの成功と失敗を説き明かす神の支配の要因があるという(『バガヴァッド・ギーター』第十八章、 第五節十四の)真理を彼らに説いた。
 神の全能性を限定し、カルマを神よりも勝れたものとみなそうとすることは愚かなことである。マハリシはこの欺瞞を簡明な質問で打ち砕いた。このカルマの力はそれ自身に本来備わっているものであろうか? その場合、カルマは神自身ということになる。いったいカルマが神自身であるといえるだろうか? 実にカルマは神の創造物のあり方や属性の一つであり、神によって創られたものである。確かに創造主より創造物を勝れたものとすることは愚かしいことである。


第2節

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クリティマホ ダダウ パタナカーラナン
krtimaho-dadhau patanakāranam

         パラマシャシュヴァタン ガティニロダカン
         phalamasasvatam gatinirodhakam

【柳田訳】
行為の結果は消え去るが、行為の大海に行為者を投げ込む種子を残す。行為は(それゆえに)解放をもたらさない。

【福間訳】
行為の結果は尽き果てるが、それは行為者を行為の大海に落とし入れる種子を残す。それゆえ、行為が解放をもたらすことはない。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
カルマの結果は過ぎ去るが、行為者をカルマの大海へと投げ込む種子を残し、カルマはいかなる救済ももたらさない。

(注釈)
 第一の詩句で語られたように、カルマは神ではなく、知覚力を持たないものであることは誰でも認めるであろう。また人々は(祈らずとも)しかるべき行為によって、自分が本来望むところの快楽や幸福のいっさいを得ることができると考えるかもしれない。このような人々に対する答えがこの詩句である。
 このように考える人々は立ち止まって自分や他人の経験について熟慮してみる必要がある。その場合明晰に考え、用いる言葉をはっきりと定義し、正しい指針を自分に与えなくてはならない。快楽は減少しはしないか。それらは長く持続するのだろうか。また快楽は、多く集まったとして、人間の幸福と同じものであろうか。幸福は成長のあらゆる段階において同一のものであろうか。こうした疑問が湧き起こるとき、人は、多くの人々の体験の助けを借りて、快楽は常に苦しみに取って代わるものであり、また非常につかの間のものであることを理解する。
 快楽は人間を低い次元、つまり動物的次元では満足させ、あるいは満足させるように思われる。しかし彼はやがて、それらはいずれ尽きてしまう感覚のくすぐりの結果にすぎず、遅かれ早かれ飽きてしまい、ただ満たされない思いと、恐らく貧欲な渇望を残すだけであると知る。そして、幸福は快楽とは明らかに異なり、さまざまな段階を持っており、最も低い人間的次元に始まり、高尚な段階を経て神の至福ーーーすなわち「一者・・・いっさいの創造が突き進んでゆく神の事象」ーーーに至るまでのさまざまな段階があることを知る。
 経験を重ねるに従って、快楽への愛着に屈服してそれをつかみとろうと積極的な手段を労することは真の幸福へと到る道ではなく、むしろ(とりわけ利他の努力によって)、欲望を犠牲にすることによりしばしばさらに多くの歓びと幸福をもたらすことがわかるようになる。そして幸福のより高次な段階と形はよりいっそう欲望を制することを伴い、完全な無私(アカマハタットヴァ)は人が得られうる最高の幸福であることが明らかになる。
 それゆえマハリシは積極的に快楽を追い求めること(結局それはつかの間のものなのだが)は、人々の魂の中に果てしなく欲望の種子を増やし、魂をすっかり破滅させ、すべての人々が向かうべき無私の神の至福という大いなる究極の目標から引き離してしまうのだと語ったのである。「種子」とはヴァーサナー(薫習ーーー慣習的思考の種子)である。それは同一の、あるいは同種の行為を繰り返す傾向(新しいカルマを作り出すこと)であり、一般に習慣、本能、性癖、態度などとして現われるものである。


第3節

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イシュヴァラーピタン ネッチャヤー クルタン
isvarārpitam necchayā krtam

         チッタショダカン ムッティサーダカン
         cittasodhakam muktisādhakam

【柳田訳】
しかし、なんの執着もなく、神への奉仕の精神で行われた行動は、心を浄化し解放への道を指し示す。

【福間訳】
だが結果を期待せず、神への奉仕として為された行為は、心を清め、解脱へと導く。

【おおえ訳】(注釈文はナラシンハ・スワミによるもの)
だがいかなる執着もなく、神への奉仕の精神でなされた行為は心を浄化し解放へ導く。

(注釈)
前の詩句において、自分を欲望に没頭させる低い次元が示され、また欲望の悲劇を脱した者だけが達することのできる高次の目標も示された。しかし欲望を離れて無欲(ヴァイラー ガ)となることは、意志の弱い人間にとってはあまりに険しく、登ることのできない断崖である。そこでマハリシはこの変移をよりたやすく安全に成し遂げる道をこの詩で示している。満足を求めてそれを得ようという欲望と性癖は、それぞれの人々が持って生まれた体と心の内に深く根付いている。
 また集団をなす社会的動物としての人間は、ある種の愛の本性を持っている。そしてこの双方の理由のために、人は特定の行為や何らかの愛や欲望を避けることができない。そこで探求者は最も困難のない道に沿って進んでゆくべきであり、利他と愛の精神で直接に、あるいは(同胞である人間と動物たちを含む)神の創造物を通して自らの愛を神に向け、神に奉仕すべきである。
 このような道に沿ってなされた行為の結果は利己的要素や野蛮な次元の痕跡を次第に減少させ、ついには拭い去り、神に向かって導くであろう。人は欲望と欲望の対象を自己と同一化してしまうため、これらはそれぞれの段階で個我を形成する。そこで次のような教えが語られる。
 「人は己の死に絶えた自我の踏み石を踏み越えて、より高次なるもの―そして至高なるものへと向かう」
 これは神、アートマン(真我)、ブラフマン(梵―宇宙の最高原理)の実現をもって終わる漸進的な真我の実現である。


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柳田侃 訳 「ラマナ・マハルシの言葉」96年東方出版刊より

福間巌 訳 「ラマナ・マハルシとの対話 第3巻」12年ナチュラルスピリット刊より

おおえまさのり 訳 「南インドの瞑想」 82年大陸書房刊より




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