「四十頌からなる実在」各節紹介 その13

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第34節 】

エンド ルム エヴァルッ クム イヤル バーイ ウラ ポル ライ
End-rum evark-kum iyal-bāi ula-poru-lai

オンド ルム ウラッ トゥル ウナルンドゥ ニライ ニンドリ ダードゥ
Ond-rum ulat-tul unarndu-nilai – nindri dādu

ウンディン ドルル ヴァルヴェン ドロン ドリラン ダン ドレンドレ
Undin druru-varuven dron-driran dan-drendre

チャンダイ イダル マーヤイ チャラッ コリガ ヴォンディ ユラム
Chandai-yidal māyai chazhak-kozhiga – vondi-yulam


【 柳田訳 】
つねにすべての人の本性であり、ハートの中で輝いているそれを悟り、それとしてとどまるかわりに、そうであるかそうでないか、形をもつかもたないか、単一か二つかそのどちらでもないかと人びとが議論することは、無知から生まれた錯覚のせいである。


【 福間訳 】
実在は生きとし生けるものすべてのハートの内に宿る。それを悟り、それとしてとどまる代わりに、「それは存在する」、「それは存在しない」、「それは形を持つ」、「それは形を持たない」、「それは一つだ」、「それは二つだ」などと論争するのは、無知から生まれた幻想のせいである。



【 第35節 】

チッ タマーイ ウルポル ライ テーン ディルッタル シッディ ピラ
Chit-tamāi ulporu-lai tērn-diruttal siddhi-pira

シッディ エラーン チョッパ ナマール シッディガレー ニッディライ ヴィッ
Siddhi-yelān choppa-namār siddhigalē – niddirai-vittu

トーンダー ラヴァイ メイヨー ウンマイ ニライ ニンデル ポイッマイ
Ōrndāl avai-meiyō unmai-nilai nindru-poimmai

ティーン ダール ティヤング ヴァロー テーン ディルニー クーンドゥ マヤル
Tīrn-dār tiyangu-varō tērn-dirunī – kūrndu-mayal


【 柳田訳 】
つねに存在している真我を実現しそれとしてとどまることは(本当の)成就である。すべてその他の成就は夢の中に現われるようなものである。これらは人が目覚めたときに実在するであろうか。錯覚を取り除き彼らの真の状態の中で成就した人びとが、再び惑わされることがあるだろうか。


【 福間訳 】
常に存在する実在を探究し、「それ」として在ることが真の達成である。それ以外の達成は夢のようなもの。夢から目覚めたとき、それは実在するだろうか? 幻想を取り除いて真我の内に確立された人が、惑わされるだろうか?



【 第36節 】

ナー ムダレン ドレンニ ナラ ナーマドゥ ヴェン ドレンヌ マドゥ
Nām-udalen drenni-nala nāmadu-ven drennu-madu

ナー マドヴァー ニルパ ダルク ナットル ナイエー ヤーメン ドルム
Nām-aduvā nirpa-darku nattru-naiyē – yāmen-drum

ナー マドゥヴェン ドレン ヌヴァデー ナーン マニダン エンドレ ヌモー
Nām-aduven dren-nuvadē nān-manidan endre-numō

ナー マドゥヴァー ニルク マダ ナー ラリヤー デームヤ ルム
Nām-aduvā nirku-mada nāl-ariyā – dēmuya-lum


【 柳田訳 】
もしわれわれが「私は肉体である」と考えるとすれば、「いや、私はそれである」という想念は、それとしてとどまるためにわれわれを助けることになるだろう。しかしわれわれはそれを考え続けねばならないのだろうか。(人は)彼は人間であると考え続けるだろうか。われわれはまさしくそれである。


【 福間訳 】
「私は身体だ」という想念が起こったときに、「いいや、私は『それ』だ」と瞑想することは、「それ」として在るための助けとなるだろう。しかし、常に「それ」として在る人にとって、「私は『それ』だ」と考え続ける必要がどこにあろう? 「私は人間だ」と考える人がいるだろうか?









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