「四十頌からなる実在」各節紹介 その8

22年12月より「オンライン・ラマナ・サットサンガ」プログラムEにての配信中の、「四十頌からなる実在(Ulladu Narpadu :ウラドゥ・ナールパドゥ)」の概要解説&各節紹介シリーズです。


【 第19節 】

ヴィディ マディ ムーラ ヴィヴェーカ ミラールッケー
Vidi-madi mūla vivēkam ilārkkē

ヴィディ マディ ヴェッルム ヴィヴァー ダム ヴィディ マディガッ
Vidi-madi vellum vivā-dam – vidi-madigatku

オームダ ラーン タンナイ ウナルン ダー ラヴァイ タナンダー
Ōrmuda-lān tannai unarn-dār avai-tanandār

チャー ヴァロー ピンヌ マヴァイ チャーットルヴァーイ チャー バヴァイ
Chār-varō pinnu-mavai chāttruvāi – chār-bhavai


【 柳田訳 】
運命と自由意志の両方の源を知らない人々だけが、そのいずれがまさっているかについての議論に関心をもつ。運命と自由意志の根拠である真我を実現した人びとは、それらに拘束されることはない。かれらが再びそれらに依存することがあるだろうか。


【 福間訳 】
自由意志と運命の両方の源を知らない者だけが、「そのいずれが勝っているか?」などと議論する。自由意志と運命の源である真我を実現した人は、その両方を超越し、再び巻き込まれることはない。



【 第20節 】

カーヌム タナイ ヴィットゥ ターン カダヴ ライ カーナル
Kānum tanai-vittu tān-kadavu lai-kānal

カーヌム マノーマヤ マーン カーッチ タナイ カーヌ マヴァン
Kānum manōmaya-mān kātchi-tanai – kānu-mavan

カーンカダ ヴル カンダ ナーン タン ムダライ ターン ムダルポーイ
Tānkada-vul kanda-nān tan-mudalai tān-mudalpōi

ターンカダ ヴ ランドリ イラ ダー ルイラー ターン カルドゥム
Tānkada-vul andri-yila dāl-uyirā –tān-karudum


【 柳田訳 】
真我を見ることなく神を見る人が見るのは、ただ心の映像だけである。自分自身を見ている人だけが神を見ている。彼は個体性を失い、神以外のなにものも残っていないのだから。


【 福間訳 】
「見る者」である真我を見ずに神の姿を見ることは、心の投影を見ているにすぎない。真我を見る人だけが、真に神を見た人と言われている。※5 自我を失って真我を見た人は、神そのものだからだ。
※5 代替訳:「見る者」を離れて神は存在しない。



【 第21節 】

タンナイッ ターン カーナル タライ ヴァン タナイッ カーナル
Tannait-tān kānal talai-van tanaik-kānal

エンヌム パンヌー ルンマイ エンナイ エニン タンナイッ ターン
Ennum pannūl-unmai ennai-enin – tannait-tān

カーナ レヴァン ターノンド ラール カーナ ヴォナー デーットラ ライヴァー
Kānal-evan tānond-rār kāna-vonā dēttra-laivar

カーナ レヴァン ウーナーダル カーネヴァイ ユン カーヌム
Kānal-evan ūnādal kānevai-yun – kānum


【 柳田訳 】
もし、「太古からの聖典が、自己を見ることを神を見ることとして述べているのはどういう意味か」と問われるならば、人はどのようにして自己自身を見ることができるのかという(反対質問)が答である。さらに、もし人が自分自身を見ることができないならば、どのようにして人は神を見るのか。ただ神によって吸収されつくした存在によってのみ。


【 福間訳 】
聖典が説く「真我を見ること」と「神を見ること」とは何を意味するのか?いかにして真我を見るのか?真我は他者の存在しない「一者」であるため、それを見ることはできない。いかにして神を見るのか?神を見ることとは、神の中に融け入ることである。










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