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未来構想 作田/見田

「東の見田、西の作田」と並び評されることのしばしばあった見田宗介氏の訃報が流れた。新聞紙上の最初の両氏による対談を取り上げてみよう。

1972(昭和47)年 7月 1日『朝日新聞』「未来構想」対談
東大助教授 見田宗介氏 京大教授 作田啓一氏
コミューンに希望 多様な個性の「交響型」を

人類共同体への志向
 作田 いま、過去へかえることが未来に通じるというロマンティシズム、国家といったワクをこえた人類的共同体への志向が広がっている。過去に楽園があったという考えは人類共通のものだが、これには生物学的な根拠があるようだ。河合雅雄氏らの観察によると、ゆたかな森林のアフリカザルは飢えの心配もなく、一匹一匹が勝手気ままな生活で、集団の統制は弱い。そこに好みの選択や活動の範囲の広がり、自分を他のサルと見分ける「個体認識」も発達する。人類はこのサルの世界で身につけた好奇心や自由という特性、能力によって、自然の豊かさとは全く別の超生物的文明をつくりあげた。その過程で自らの文明をどのように分配し、享受するかの道筋を見失ってきたように思う。
 見田 石牟礼道子の「苦海浄土」に描かれている「一日三合のショウチュウと自らとった魚を楽しむ以上の栄華はない」という漁師のイメージは、工業化によるどんな豊かさでもつぐなえない根源的なゆたかさ、原初的なおおらかさとして訴えてくる。しかし、穀物を保存し蓄積できるようになった農業生産の発展とともに、みのりまでまつガマンや自らの土地、穀物を囲いこんで他人を排除する「私」など、抑制のシステムが完成したのではないか。さらに工業生産の発展でモノはゆたかになったが、工業製品のゆたかさは原初的ゆたかさとは質的にちがい、完全につぐなうことは不可能ではないか。
 作田 共同体には、個体がその中に溶解してしまったイメージがあるが、アフリカザルの場合、かえって個体性が発達しているという点で示唆的だ。それは土地の囲いこみによる「私」性やプライバシーという人間関係とは別の、自己表現としての個体性であり、必ずしも共同体と両立不可能なものではない。
 見田 たしかに「私」性と個性を混同するのは近代人の迷信だ。競争的な社会では各人が「私」にしがみつくためにかえって個性は殺され、みんな似てくる。
 作田 さらに人類の未来を欠乏と充足の動機だけで考えると行詰る。人類がゆたかな森林を離れてきびしい草原に出てきた動機も、欠乏では説明できない。
 見田 欲望が無限に拡大するのは、むしろ近代の病理現象かもしれない。自然を浪費することでしか満たされないといういまのメカニズムから価値観を解放する必要があるのではないか。
 作田 工業製品は本来、量的に比較しやすいものだ。階層化社会が、そのような産物と欲望を生み出し、それがまた階層化された社会関係を維持、強化している。この関係を変えないで工業化を阻む力を求めることはできない。

変り得る人間の欲求
 見田 未来構想には二つあって、一つは、現在の根本的には利己的でバラバラの人間性や人間関係を前提に、その矛盾を合理的に調整するシステムを考えようとする「最適社会型」。もう一つは人間関係のあり方を根本から変えることを追求する「コミューン型」だ。現在の人間性や関係を前提にする限り、いかに合理的なメカニズムをつくっても根本的な解決はない。同時にまた、いま現にある自分たちの生き方を具体的に変えていく力がないとすれば、未来構想が現実に生きている人々に訴える力は空しい。
 作田 人間の可能性は最初から与えられていて、それをこえることはできないと思う。最適社会モデルの基礎となっている人間の欲求、あるいは態度が永遠不変のものとは思わないが、そういう欲求と並存してコミューンを形成する能力もまた与えられていると考えたい。
 見田 たしかに人間に絶対変らぬ条件はあると思う。しかし問題は、現代人がどこまで変りうるかということだ。権力や所有への欲求、エゴイズムといった人と人との相反し、対立する欲求が果して永遠不変なのかどうか、厳密に検討する必要がある。

"人間の革命" が問題
 作田 社会を変えて望ましい未来をつくるという考え方は思想史上二つあったのではないか。一つは人間関係に内在する自然の、自発的な進歩が疎外によって阻まれているので、疎外関係を除去しさえすればよいという考え方。いま一つは、人間の内の自然に委ねると悪い方向に向うので、自然を否定して別のユートピアをつくろうという理想主義。
 見田 抑圧を除けば人間の内の自然は発展するだろうが、その除去するということが大変な問題だ。
 作田 支配者が操作にたけているだけでなく、被支配者の内にも支配、所有、絶対への帰依への願望がある。そこでは抑圧も抑圧とは考えられていない。
 見田 支配者を打倒するときも、抑圧されている側の権力欲や支配欲に拠る限り、権力者や支配階級が交代するだけで、抑圧と支配の原理そのものは変らない。抑圧に対する闘いには、共犯者としての自らに対する闘いをも含まざるをえない。
 作田 日常の行動を実際に動かしているこのような欲求からの離脱は非常にむずかしい。革命はそのような人間自身に対する革命でもある。
    ×  ×  ×
 見田 「コミューン型」の未来のイメージにも大よそ二つあって、一つは他人を排除する「私」をとり払い、個人の「開放」によって人間と全自然とが調和した原初的なゆたかさを理念とする未来。いま一つは、文明社会の延長線上に個性的な意識を無限に多様化し、ゆたかで深い個性のかっとうがみられるダイナミックな未来だ。
 作田 個性をもち、自由でありながら共同しうるタイプのコミューンに希望を託するという点では同じ意見だ。
 見田 個が溶解してしまった「一体型」のコミューンよりも、多様な個性が互いに照りかえしあうような「交響型」のコミューンを構想しなければならない。
 作田 それには人為をもって人間の内なる「自然」をつくる以外にない。歴史的に形成された「自然」にまかせると最適社会型か溶解型になる。

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未来構想について両氏は同じ方向を見つめている。ただし、見田が非常に慎重にではあるものの、欠乏と充足の動機に駆られている現代人がその行詰まりを超えて、生の豊かな表現の動機にもとづくコミューンに向け変化してゆく、そういった個体の可能性に熱い期待を寄せているようであるのに対し、作田はその跳躍のむつかしさを強調している。

--欠乏と充足の動機は生存本能に関わるものであるから、そこに知性の働きが加わり生じた所有欲、権力欲、支配欲など、人間がそれら人間個体の欲求から離れることは困難。そしてこの欲求は「最適社会」のワクを超えにくくするし、その中でコミューン的な関係を形成したとしてもそれは直接的な感覚を共有する第一次集団(われわれ、仲間)のワクを超えない。--

開かれた「交響型コミューン」が可能であるとするなら、それを形成する超個体的、超生存的な欲望と能力が、個体保存の欲望と能力に並びあらかじめ人間に与えられていると考えるほかはない。その根拠をどこに求めるか。ベルクソン主義に立つ作田は、個体および種の生存・保存の目標を超えてはるかに遠くを志向する生命の力と、知性以上の直観の能力に信頼を置くのであり、その根源的力に「人為をもって」光を当て、開かれた魂たちの開かれた社会をつくりゆくほかはない、と主張する。

ここに取り上げた新聞紙上の対談に先立ち、『展望』(1972年3月号、筑摩書房)誌上で市井三郎(哲学者)、作田、見田(真木悠介のペンネームを使う)による鼎談「人間の未来を問う」が行われている。上記補足はそこでの議論と作田の思想を合わせての読み取りである。

意気軒昂なヒューマニスト(もちろん素朴な人間中心主義を超えてゆくヒューマニズムである)としての見田氏(当時35歳)と脱ヒューマニズムを志向する作田氏(当時50歳)の研究は、それぞれに独自のスタイルを築き、社会学の領域にとどまらない影響を世にひろく及ぼし続けた。そのバトンを受け取るのは「生きていること」自体の経験のさなかにある私たちである。(粧)

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