閑暇について
1973(昭和48)年 6月20日『京大教養部報』第54号
閑暇について
作田啓一
私の専門は社会学なので、余暇(leisure)についての文献にいくらかは親しんでいる。それで、部報編集委員長の佐野利勝先生から余暇について一文を草するようにというご依頼があった時、即座に書きますと答えた。ところがよく考えてみると、部報が求めているのは社会学のエッセイではない。よく考えてみなくても、それくらいのことはすぐわかるはずであるのに、それに気づかなかったのは、社会学などをやっている者の悪い習慣のせいである。社会学はさまざまな問題にアプローチしうると暗に期待されているので、課題が出されるとすぐに、「社会学的には……」という形での反応が起ってしまう。部報の原稿ではこの種の職業的な反応をストレートに表わしてはまずいことに気がついたので、J・デュマズディエによれば、とか、S・デ・グラツィアに従えば、とか、そういった話はやめにする。このたぐいの話は授業の時に取っておきたい。
私は余暇という言葉をあまり好まない。余暇は仕事(work)の反対語だからである。もう少し正確にいうと、余暇と仕事という風に、2つの領域をはっきりと画する考え方になじめないのだ。昼休みに屋上でバレーボールなどをしていた会社員が、1時になると、「さあ、仕事、仕事」などと言い合ってズボンのほこりを払う。こんな光景がどこかのビルで本当に見られるかどうかは知らないが、その光景を想像しただけでも気持が悪くなる。むかし中学校かどこかで、「よく学び、よく遊べ」という教訓を聞いた。これも私にはゾッとするような教訓である。今にして思えば、この教訓の中には文明の狡智がある。
よく学んだ人間は、遊びの時間帯にはいっても頭の中は観念でいっぱいになって、よく遊べないのではなかろうか。よく遊んだ人間は、学びの時間帯にはいっても快楽の残像のために、よく学べないのではなかろうか。仕事と余暇をはっきりわけるということは、生命の流れを断ち切る不自然な作為である。「よく遊べ」という教訓は一見思いやりありげに見えるが、実は不自然な作為を行う管理者が、「お前たちはよく遊んだのだから、さあこれからは仕事だ」と指揮棒を振っているのである。この管理者は文明一般である。
余暇は仕事の反対語であるから、私はむしろ閑暇という古風な言葉を好む。閑暇とは、要するにただの「ひま」である。ひま人という言葉は、文明社会では普通ケナシ言葉となっているようだが、それは時間の流れを切断することなく、無為の流れに身をまかせている状態が、反文明的であるためだろう。中原中也が20才になる前につくった「朝の歌」という詩がある。有名な詩なので、ご存知の方も多いだろう。
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。
最初の2つの節の引用である。「倦んじてし 人のこころを/諫めする なにものもなし」というところの解釈はややむつかしいが、あとはよくわかる。朝寝坊の詩人の閑暇は、いつから始まったかもわからず、いつ終るかもわからない。詩人はとめどもない倦怠の中に沈み、内心の微妙な動きを追っている。彼は何かを渇望しているが、その渇望を満たすほんものの表現手段が見つからないので、動きたい心と動きたくない心との葛藤を静かに耐えている。それが「鄙びたる軍学を憶」わす倦怠である。
私はこの種の閑暇を好むが、最近の流行を追って、怠惰の美徳を礼賛するつもりはない。倦怠を表現するために、何日間も心のエネルギーを集中して、この詩人はこの詩を書いたにきまっている。仕事が好きなら、それに夢中になっていけない理由はどこにもない。しかし、ここにむつかしい問題がある。それは、今日の社会に生きている私たちは、自分の時間を自分で管理できない、という問題である。私たちの1日の行動、1週間の行動、そして時としては1ヶ月間の行動でさえ、他律的に課せられたスケジュールによって、大きく規制されている。こういう状況のもとでは、活動の時と鎮静の時とを、自分の心の流れに従って配分することは、ほとんど不可能である。この拘束、心の流れの不自然な切断のゆえに、私たちはがむしゃらに働いてみたり、がむしゃらに遊んでみたりする。このがむしゃらな(術語を使えばcompulsiveな)熱中がモーレツ社員なるタイプを生み出し、余暇産業を発展させてきた。
個人としての私たち1人1人は、社会の大きな力にさからうことはむつかしいけれども、それでも、他律的な余暇を自律的な閑暇にすることくらいは、ある程度は可能であると思う。結論がいかにも教師風のお説教調だと評する諸君もいるかもしれないが、これは私の人間としての実感であり、また自戒の言葉でもある。本当にしたいことが出てくるまで待つのは、なかなかしんぼうが要る。
(さくたけいいち、社会学)
久しぶりの投稿である。なにかと多忙であったのだが、「書かなければ」から「書きたい」に移るきっかけを与えてくれたのがこの文章だ。どことなくユーモラスな作田調に、これこれ、とニンマリした。切れ切れの表層の時間の底に切れ目なく流れているものに同期しながら、この仕事は進めたい。(粧)
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