ひとをかたどる
人間を物質の集合体と捉えた時でさえ、自分と自分以外のものとの境界線の引き方はひとつではない。
ひとつの素朴な考え方は、皮膚と粘膜をもって境界とするもの。人間は消化管を中心としたドーナツだ。
ふたつめは、自己の感覚を根拠にするもの。靴の底は足の裏と一体化し、傘を持つと腕が伸びる。そんなことを鷲田清一が言っていた気がする。小学生が傘を振り回すのは自己を肥大させたいからだろう。
もうひとつは、からだの免疫系が攻撃しないものが自己で攻撃するものが自己以外。多田富雄という有名な免疫学者が『免疫の意味論』という本で言っていた。アレルギーの人も、免疫不全の人も、アイデンティティクライシスだ。
人間をことばの集合体と捉えた時、その人の輪郭をどうかたどるだろうか。
巷には人をかたどるための言葉で溢れている。血液型占い、16パーソナリティ、HSP……。人の輪郭は科学だけでは決まらない。ジグソーパズルのピースは多少ズレてたって意外とハマるもんだ。
病院での仕事も、大体がひとを言葉でかたどる仕事だ。
この患者さんは45歳女性で、○○病に対して○○手術を行った術後3日目で、血圧がいくらで、時間尿量がいくらで、疼痛がNRS 3/10で、点滴を時間60速に減量して、本日から食事を開始します。
膨大な量の言葉が、ゲシュタルトになってその人をかたどっていく。医師としての経験で培われる能力のひとつが、このゲシュタルト構成能力だと思ったりする。
でも、広辞苑に載ってる単語を全部使ったって、毛糸玉すら正確にかたどることはできない。眼や舌や皮膚を使ったって、毛糸玉はかたどりきれない。世界は常に向こう側にある。
でも、僕らは(ほとんど常に)目の前の友達のことを、患者のことを、知りたいと思う。願わくばその人の輪郭を知りたいと思う。
人間はめんどくさい生き物だから、過去というものを持っている。歴史と言ってもいい。既に向こう側にある世界の、もっと向こう側だ。そういうわけで人間の輪郭は四次元だから、もっとややこしい。それをインクのしみやピクセルの集合や空気の振動でかたどろうというのだから、無謀な話だ。
振り返ると、言葉もめんどくさいもので、文脈というものを持てる。歴史と言ってもいい。言葉は、文脈によって言葉以上のものを語れるんじゃないか。単なる逆説を語りたいだけだろうか。目には目を、過去には文脈を、というのは短絡的だろうか。
「だいすきだよ」と一往復交わした二人より、「おはよう」「おやすみ」「げんき?」「うん」を365日続けた二人の方が、よほどお互いをよくかたどれているんじゃないか。
語りえるものと、語りえないものの境界は言葉によっては語りえない(かたどれない)なんて聞きかじったようなことを考えたりするけど、言葉に時間を、文脈を、歴史を乗せれば語りえないその人の輪郭に少し近づける気もする。
波打ち際の海岸線にも、地図では陸と海の境界が引かれている。最近は、毎日砂浜に座って、寄せて返す波を、堆積していく貝殻を、崩れゆく砂の城を眺めながら、手元の地図に線を引き直している。もう何本目だ。
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