逃亡者

「海に行きたい」

真夜中に電話をしてきた彼はそう言った、ベットに入ってうとうとと微睡んでいた時に振動音が着信を告げる。半分寝ぼけたまま通話ボタンをタップし「もしもし」と少し掠れた声で応答して、聞こえてきた第一声がその台詞だったのだ。

車で迎えに行くと「ごめん」と助手席に乗り込んでくる。夜中に海が見たいなんてワガママを言ったことに対しての謝罪の言葉なのだろうけど、彼の表情が見えなくて曖昧に「うん」とだけ答えた。

風は冷たく、真っ暗な海は波音だけが響く。
「寒ぃな、やっぱ」そう言いながら彼は手に持っていた紙袋から数本の花火を取り出した。
「部屋の掃除してたら、クローゼットの奥から出てきた」
いつのものか分からないし、湿気ているかもしれない。それでも、火がつくかもと僅かに期待して、試しに持ってきたのだと彼は言った。
カチカチとライターで火を着ける。なかなかつかなくて、ダメか、と思った瞬間勢いよく火花が散る。
「ついて、よかった」
そういって彼は笑いながら花火を見つめる。
男2人で花火なんて。しかも冬の夜に。これが女の子なら少しはロマンチックだったかも、とか。もう少し仲間がいれば盛り上がったのかな、と思ったけれど、彼は俺と2人だけの花火を選んだ。
勢いよく火花を散らして花火はすぐに消えてしまう。数本繰り返し、最後の1本が消えるとまた静寂が訪れる。
「終わっちゃったな」
消えた花火を砂浜に捨てた彼はゆっくりと海へ近付いて行く。
「!?」
何故だか止めなくてはいけないと思った。別に海を見に来たのだからおかしくはないのに。この何もかもを覆い隠すような暗闇が不安にさせる。
砂浜を歩く足音が波の音で消えてしまう。
「待って…」
波打ち際で佇む彼がこちらを振り向く。
憂いでもない、悲しみでもない、諦めでも、絶望でもない、それなのに、助けを求める顔を彼は、していた。
駆け寄り力強く抱き締める。
置いて行かれるような気がしたのだ。俺を置いていなくなってしまうような気がしたのだ。
俺より背の高い身体がぎゅうぎゅうと抱きしめ返してくる。
「ーーー…」
安心を求めるときにだけ彼が使う呼び方。
「こわい」
震える声で吐き出した彼の言葉は、波の音にかき消されてしまいそうなほど、あまりに小さく弱々しくて、泣きたくなった。
大きな身体が俺を包み込むように抱きしめてくる。その腕は震えていて、怯えていた。
波が引くたびに、俺たちの足下は危うい感覚にさらされていく。
簡単に大丈夫とも言ってやれない。それでも彼の不安を拭い去ってやりたい。
彼が口にした恐れの正体を俺は知っている。俺も感じた事のあるもの。
追いかけていた者から追いかけられる者へと変化し、自分と周りが見えなくなった時の焦燥感。足掻けば足掻くほど自分の首は締まり、聞きたくもない情報や言葉は鋭利な刃となって己や周囲を傷つけていく。変わりたくないのに周りは急速に変化していて、自分だけが取り残されているような感覚。泣いて叫びたくなるような感情が喉の奥底から湧き上がってくる苛立ち。護ってくれるはずの仲間が信用出来なくなる恐怖。

「ねぇ、逃げちゃおうか?」
「……」
「そうしたら、お前のこわいものはなくなる。お前とおれの2人だけ」
「……」
「ねぇ?」
「まだ、逃げたくない」
「…うん」
「まだ、見たいものが沢山あるから」
「そっか」
「お前にも、まだ、一緒にいてほしい」
「いるよ」
「もしまた、俺が逃げたくなったら」
「ん…」
「こうやって、一緒に逃げようって言って」
「うん」
「そうしたら、また戻ってこれるから」
「大丈夫、お前を1人にはしないよ」

彼の表情は先ほどに比べれば幾分かすっきりとした、穏やかなものに変わっていた。
さあ、そろそろ戻ろう。
朝が来る。
日常が始まる。
逃げても現実は追いかけてくるし、眠らなくても明日は必ず今日になる。逃げくなったら、そうしたら、また一緒に逃避行でもしようか。

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