いつも

いつもそうだ、怒りの感情が頭いっぱいに溢れてしまい、一度気になるとそれに感情、思考の全てを支配されてしまう。他に楽しいことや嬉しい事を、思い出そうとしても気持ちの治りがつかず、もうダメになる。
その態度が外に出て他者から敬遠されてしまうのも理解してするのに、小さな子どもが我を通したくて不機嫌になり、大人の注意を引くような何とも幼い態度になってしまう。
つまりは、心の成長がないのだ、これ以外の気の引き方をしらないのだ。
誰とでも仲良くなれる、は子どもの頃には美徳とされていたが、成長するにつれ、それは「八方美人」と名前を変えて私の前に大きく立ちはだかり、人との関わり方に臆病になってしまった。
ある程度気心が知れれば本音を見せ会話を楽しめるのだが、それに至るまで時間を要してしまう。そして、その間私の中で感情が目まぐるしく動き、今自分が何を話しているのかに重点を置いてしまい、表情の事にまで気が配れなくなり、気付くといつも無表情のように他人と接してしまう。
言いたいことが山のようにあり、話したいことがいくらでもあるのに、言葉と心と感情がバラバラでマッチせず、ただただ、つまらない顔をして過ごしてしまうのである。
私が千の言葉を知っていたならば、私がいくつもの顔を使い分けたなら、私が人の評価に臆することなく自分に自信を持てたならば、きっと今私の世界は今とは違う見え方をしているのだろう。
何度も自分の考え方や思い込みを払拭しようと試みたが、尽く失敗をし、自分の中の「常識」」や「決め事」を改めることができないでいるのだ。
私の中の固定概念は三つ子の魂のそれと同じで変化を恐れ、新しい事を受け入れ、多様性を重んじながら否定をする事を繰り返していた。
誰かにとっての「唯一」でありたいと思い至らせながら、誰かの「唯一」になる努力をしてこなかった、もしくはその努力が見当違いである事が多く、実を結ぶことはなかった。それと同時に「誰かの唯一になる」という考えを持つ事がおこがましい考えなのだと恥じらいすら感じてしまい、人もにその考えがバレてしまった時には言いようのない羞恥心と「お前になどなれるはずがない」と言われているような恐怖心に苛まれるのだ。
自己肯定感の低さは常々理解しているが、理解しているからといって直ぐに改善されるものではない。今もこうして自分の気持ちを整理して文字にしたためる事で私にわずかに残された自尊心を保とうとしているのだから。

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