Aの告白-5

その頃から毎日の生活、仕事に倦んできた。「ヒポクラテスたち」という昔見た映画館で女医役の伊藤蘭が自傷していたが、それを真似て病院から持ってきた注射針で手首を刺してみたり、刺激を求めて早く仕事が終わった夜にはSMバーを梯子した。

みすずは珍しく定時で帰れそうな日の夕方自殺未遂で大学病院に運ばれてきたのだ。頸動脈損傷による出血多量。死にたいやつはさっさと死ねばいいのに、と帰り支度をしていたところに緊急呼び出しを受けた私は舌打ちした。手術室に運ばれてきたときには血圧60、脈拍も低下傾向で輸血を注射器を使ってポンピングするように下級医に命じて全身麻酔を開始した。奇跡的に脂肪が損傷された血管を覆っていたため大出血には至らず命拾いしたようだ。外科医によって血管が再建されるさまを見ながら、でぶはこういうとき得なのかとひとりごちた。術後の回診では特に問題なさそうだった。あの患者がまさかSMバーに来ていたとは。

私はSMバーで女王様に鞭打たれるM男の粘っこい眼差しをよく見かける。気が弱いくせに依存心が強い彼らとみすずには共通点があるように思われた。奴隷として調教できないだろうか?そう考えてみすずの誘いに乗ったのだ。イタリアンレストランであたりさわりのない話をした。私は会話が得意ではなく、話は弾まなかったのだがみすずが私の右耳のピアスをじっと見ているのに気がついた。右耳だけのピアスはレズビアンに特徴的だと言われている。私は左耳に粘液腫がありピアスが開けられないのだが、時々誤解されてしまう。みすずが同性愛者ならさらに利用できるかもしれないと思った。ラインを交換し、今度は私の方から行きつけのバーに誘った。

そのバーは家の近所にあった。店主は昔学生運動をしていたらしいが、就職できなかったためにバーを始めたのだそうだ。白髪で伊藤博文のような髭を伸ばし、ピースマークがプリントされたバンダナを頭に巻いている。今は耳も遠くなってしまって70年代のハードロックやらパンクやらを大音響でかけている。きっと頭の中は1970年代で止まっているのだろう。店主は無愛想で客も少なく何故この店の経営が成り立っているのか不明だが、仕事帰りに誰とも話したくないときには妙に落ち着けるので時々ふらっと立ち寄っている。その日は手術が長引き、待ち合わせ時間を少し過ぎてしまった。

みすずはカウンターにもっさりと座っていた。この間も思ったのだがこの女は服のセンスが悪い。上下パステルカラーのツーピースにグレーのカーディガンを羽織っているが、でぶが膨張色を着るとますます膨張して見えるのに気がつかないのか。年齢は確か45歳だと聞いたが目の周りの皴といい、垂れ下がった頬といい55歳といってもおかしくないくらい老けている。昔美人だったであろう片鱗は残しているが。少女が人間的な成長がないままに壮年になるとこういう老け方をするのかと考えた。私はいつものようにバーボンをストレートで、と店主に命じた。みすずは何やらアルコール度数が高くない酒を注文していた。私はかねてから気になっていたことを聞いてみたが、店内の音響にかき消されてしまった。みすずの耳に顔を近づけて言った。

「失恋でもしたの?」

みすずは口ごもり下を向いたのであわてて付け加えた。

「言いたくなければ言わなくてもいいわ」

すると話をそらすように先生はお酒が強いんですね、と耳元で言われたので、先生はやめてと制した。私は病院以外の場所で身分を明かしたことはない。医師と分かれば羨望と嫉妬の眼差しにさらされることが多く、そうでなくても健康相談を受けたりと煩わしいことが多いからだ。病院以外の場所で先生と呼ばれたくはない。私の不機嫌な顔にみすずが怯んだので、彼女の好きな酒の種類を聞いてみた。ワインが好きということだったので、このあと自宅でワインを飲まないかと誘った。

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