引越しを決意した話


24歳社会人、ひさしぶりに負の感情で泣いた。悲しくて悔しくて泣いた。これをこのままやり過ごして「ああ、そんなことあったね」にするのはわたしが可哀想すぎるから、せめて気持ちを形に残しておこうと思う。


きっかけは一本のバターナイフだった。


火曜の朝、掃除機の音で目が覚めた。どうやら同居している叔母が台所で掃除機をかけているようだった。スマホを見てみるとまだ6時過ぎ。こんなド平日の早朝に掃除機かけるなんて隣の部屋から苦情くるぞ…てか貴重な睡眠時間を奪われたことにわたしが苦情をいれるぞ…と、やかましい吸引音から逃げるように布団を被り直した。しばらくし、ようやく音が止み、眉間の力を緩めたのも束の間。寝室の扉ががらりと空き、影が落ちた。


「ねえ、バターナイフどこやった?」


布団から顔を出すと、叔母がわたしを見下ろしていた。

……なんで普通に起きてる前提で話しかけるん?その前にまず騒音でわたしの眠りを妨げたことを謝ってくれん…?あと数十分はジャニーズJr.の夢の続きを見られたはずなのに、風雅くんとの時間が…ああもう……。

寝ぼけ眼でだいぶイラつきつつも、一応もう社会人なので大人の対応をした。


「……昨日、洗って拭いて、いつもの箸立てに入れたけど」

「ないんだけど」

「いやでも入れたけど」

「ないけど」


数回の「けど」のやりとりの後、叔母は痺れを切らしたように「じゃあ探してよ」と言った。このまま言い合っていても埒が開かないので、渋々起き上がって、台所の箸立てを確認すると、たしかにバターナイフがない。


「……ないね、どこいったんだろ」


おかしいな…と軽く周辺を探していると、後ろから低い声が聞こえた。


「……ほんとにそこに置いたの?」


…………はぁ…? なんだその言い方……まるですべての非がわたしにあるような………。


ちょっとムカッときたものの、わたしはもう社会人なので、ぐっと堪える。


「や、ちゃんと拭いたあとここに入れたんだけど…」

「最後に触ったのあんたでしょ。思い出して」

「だから、洗ったのを拭いてここに置いたって!まだベタついてるかなって思いつつ入れたから、ちゃんと覚えてるよ!!」

「でもないじゃん」


そう言われてしまうと、その通りなので何も言い返せず、不服ながらも黙って叔母とともに捜索を再開する。

普段はわりとおおらかで寛容な叔母だが、失くしものに関しては異常にしつこいところがある。失くしたものをそのままにしておけない性質らしい。「ハサミをなくした」「ヘアゴムをなくした」で、ずーーーーっとそれを見つけるまで探し続ける。わたしはわりと早い段階で「買い直そう」と諦めるタイプだから、毎回、バタバタ探し回る叔母に「一緒に探して」と言われる前にとっとと部屋を退散することにしているが、今回はそうもいかない。


「……ほんとどこにやったのよ…はぁ……」


いや、ため息をつきたいのはこっちなんだが……。

なんでそんな責めるような感じで言うかなあ……くそ……バターナイフなんか洗わず放置しておくんだった……シンクにあるものを洗って拭いて片付けるなんて、同居人への優しい気遣いとおりこうな育ちの良さを発揮してしまったばかりに……ちくしょう……。

モヤモヤ30%イライラ70%でバターナイフを探し続けるも全くでてくる気配はない。

叔母の目は険しさを増す。

目は口ほどに物を言うという言葉通り、叔母の目ははっきりと『姪のせいで朝からこんなこと…』と言っていた。

だから…わたしはちゃんと仕舞ったっつーの……そもそも『朝からこんなこと…』と思ってるのはわたしの方だからな………こんな朝早く起こされて………


「……そういえば朝なのになんで掃除機かけてたの?」

「……砂糖こぼして。朝から最悪。だから今イライラしてんの」


………いや………それ……

わたし関係ねぇーーーーーーーーー!!!!!!!


バターナイフ以上のイラつきがわたしに投げられている!!!

バターナイフ過剰分のイライラは自己処理してくれよ!!!!

バターナイフ分のイライラを全てわたしに向けるのもどうかと思うけどせめて!!!!!


いよいよ地獄が極まっていた。

イラつきとイラつきのぶつかり合い。すぎてゆく朝の貴重な時間。それでも見つからないバターナイフ。


「……もうバターナイフ買っちゃえばよくない?」


ぽろっと落としてしまった言葉は、決して言ってはいけない一言だとわかっていた。

……のに言ってしまったのは、一刻も早くこの状態から抜け出したかったからで、でもそれは案の定叔母のイラつきに拍車をかけるものでしかなかった。


「…あんたさぁ、そうやってすぐに言うよね。買うのは簡単だよ。けど失くしたものを失くしたままにするのが嫌なの。なんでもすぐ新しいの買えばいいって、人からもらった物とかにもそんなこと言える?」

「あ〜〜…はい……(でもバターナイフは貰い物じゃないじゃん…)」

「そもそもバターナイフの置き場、箸立てじゃないからね?引き出しに入れるの。ちゃんとしないからこうやって失くして…」

「………(置き場所きまってたの初耳なんだけど…)」

「ほんとにここに置いたの?」

「それはちゃんと覚えてるよ」

「じゃあなんでないの?」


……………………………。



知るかーーーーーーーーー!!!!!!!!!!



知ってたら今ごろ見つかってるわ!!!!!

ニコニコでバターナイフ差し出しとるわ!!!!!

ムカつく!!ムカつく!!!ムカつく!!!!!


結局、その朝はバターナイフを見つけられず、険悪な雰囲気のままお互い家を出た。地下鉄に揺られながらバターナイフの値段を調べるとだいたい500円前後で、たった500円そこらのもので、6年間色々はあったけどそこそこ穏やかに過ごしてきた叔母との暮らしに亀裂が入ったのかと思うとやるせなかった。

そして、そのショックは1日かけてじわじわと心に浸透した。

怒りは即効性で悲しみは遅効性だ。

デスクでメールを打ちながら、どう考えてもわたしは悪くない…とぐうっと喉元に込み上げるものを押し戻し、エクセルを使いながら、叔母はわたしの言うことを1ミリも信じてくれなかった…と唇を噛んだ。

たしかにわたしは、今住んでる賃貸部屋の床にいくつか傷をつけてしまったし、よくゴミも出し忘れてしまう。窓の桟に大きめのへこみをつけたのもわたしだ。でも誓ってバターナイフを適当な場所にしまってはいない。

なんだかもうひたすら悲しかった。「オオカミが来たぞ!」と叫んだ寓話の中の少年も、こんな気持ちだったんだろうか。今のわたしは、オオカミ少年ならぬオオカミ婦女か……語呂悪いしたいして面白くもない…もう最低……きっと叔母は、帰ってきて部屋が燃えていたら、真っ先にわたしのことを疑うんだろう。最後の最後、わたしのことを信じてはくれないんだろう。


最悪な気分のまま家に帰り、帰ってきた叔母にちくちくと朝のことを言われ(「本当に覚えてないの?」「すぐ買えばいいって発想どうかと思う」等)、一通りお小言を言い終えた叔母のシャワーを浴びる音を聞きながら、一人で泣いた。悲しくて悔しくて泣いた。


引っ越そう。早くこの部屋から出よう。

6年も一緒に暮らしてきたから、ある程度は信頼されていると思ってた。けど、全然そんなことはなかった。叔母は未来に起こるかもしれない火災をきっとわたしのせいにする。


シャワーを浴び終えた叔母は、わたしの真っ黒な負の念に気づく様子はなく、ケロッとテレビを見始めた。


叔母は火災でわたしを責めたあとわたしの無罪が発覚したときも、きっとこんなふうにケロッとわたしを責めたことを忘れるんだろうなと思った。



バターナイフ一本だった。

されどバターナイフ一本だった。


3ヶ月後、この部屋にはわたしのものが一切なくなっている様子を思い浮かべて、なんとか涙をこらえた。


もうわたしは、絶対にバターナイフを2人で使ったりなんかしない。





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