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『情報化社会』林雄二郎(1969)読書会を通しての関わりから学んだこと

深呼吸ゼミで『情報化社会』林雄二郎著(1969年)のバンドで発表会を行った。
の報告第2弾です。(第1弾の感想
今回の発表会では、本に対する主観的な意見などを入れずできるだけ本を正確に伝えることを30分、その後対話の時間を公開するという形をとることになった。
それは、毎回の打ち合わせにおいて、対話の時間が有意義な時間だったからだ。

『情報化社会』が伝えていた「情報化」とは何か?

1960年代後半のこの時代は脱工業化が言われていた時代であり、第3次産業の次の産業とは何かが議論されていたのだった。
しかし、林は、次の産業ではなく、全ての産業が「情報化」すると述べていた。
では情報化の「情報」とは何かというと、「ある人にとって影響のあることがらの知らせ」と定義した。影響がなければ情報ではないと林は述べている。

ある人にとっての影響のあることがらの知らせとは何か?

私たちはテレビのCMなどに影響されてきたのではないだろうか?
あれがほしい、これがほしい、あの子もこの子もと。みんなが持っているからというのが子どもの欲しい理由だったりする。大人もそうだったり。それが商品における情報である。
林はそれを人々の欲求の変化として捉えた。欲求不満から立ち上がった情報・・・
私たちは誰かの影響を受けてきた。(自分の意志というよりも・・・)

その影響の受け方も今の時代は変わってきている。偏った情報しか得ないにしても、自分で選んでいるという点は変化してきているのかもしれない。(しかし、データからの分析はされているので誰かの操作が入っている可能性はある。)
手からスマホが離れない毎日。
瞑想などが注目される。息子にとって、ソロキャンプやサウナでの整え時間は、強制的にスマホが手から離れる時間。誰かに流された流行ではあるけれど、必要のない情報から目を離したい、そんな時間を意識して創っているのかもしれない。
火の起こし方、便利なグッズ、良い場所、道案内。全てスマホから情報を得ている。便利なことは良いこと。それを世代間ギャップと感じる大人もいる。

対話の時間からの気づき

私たちは、『情報化社会』からたくさんの気づきを得た。林が描いていた社会はコンピュータ化、デジタル化を否定するものではない。技術の発展を見事に予測している。その上で、私たちはどうあるべきか。人として。当たり前だけれど、人と機械は違うということを、その時代の流れとして見落としていることを指摘していた。

そんなことを、読書会では対話を通して意見を述べ合う。
私の思い込みで話していることを、それはあなたの考えで林の考えではない、捉え方を変えるとこうとれる、など、自分の思い込みがたくさん剥がされた。
今回の読書会で、対話の時間が貴重な体験だった。林が「有効な無駄」の中に可能性があることを指摘していて、私たちは有効な無駄(別にお金になるわけではない)対話の時間を作り、有意義な活動だなと満足した(^◇^;)

対話を通しての関係づくり

私はこの活動に未来を感じている。

ここまでを1月29日に書いて、下書きの中に放ってあった。
多分、最後に「対話を通しての関係づくり」について何か言いたいけれど自分の言葉にできなかったのだと思う。
先日、橘川さんの『メディアは何をしたかPart2』の読書会に2回目に参加し、私はネガティブな自分にびっくり、がっかりしながらも、その自身が抱えていた根本のネガティブワードを見つけることができた。

私は、対話を通して自身の中の思い込みが剥がされるということがあると感じている。
自身の口から出る言葉を、自身の考え方を客観的に見つめて、気づきが生まれるということがあると思う。
これが、私が読書会を通してやりたいことだと考えている。

ある本を真ん中にした対話会。

対話会は関係の中で何かが生まれる機会なのではないかな。

今私が仲間と行っている読書会は、3つある。どれも本を真ん中にした対話会で、お互いの今の現場とつながる読書会であり対話会である。

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