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親父との思い出を忘れないように

親父との思い出にはどんなことがあったかな?

文章で残しておいた方が記憶が色あせない気がするから、文章で残しておくね。

意外と文章を書くのは好きなんだよ。

家の前でよくキャッチボールをしたね。軟式ボールとグローブ持ってさ。

いつもテレビでは野球がついていたせいもあって、僕もいつのまにか巨人ファンになっていたよ。

キャッチボールでは僕の投げる球を座って受け止めてくれたっけ。

「ストライク」「ボール」って仕分けしながら。ずいぶんストライクが多い甘いアンパイアだった気がするよ。

今、僕も同じことを息子とやっているからよくわかる。

んてもって、親父の投げるカーブがすごくてさ、早い動きで右下に鋭く動くもんだから取れなくて、何回も後ろにそらした。

あんなカーブよく投げれたよな。今でも僕は投げられない。

でも一度、後ろにそらした球を取りに僕は道路に飛び出しそうになった。

そのとき、親父は大きな声で僕を制止した。あんな大きな声きいたことないよ。

「待て!」だか「行くな!」だか忘れたけど、飛び出して事故るとこだった。

結構ヒヤヒヤしたんじゃないかな(笑)

同じ頃、虫眼鏡で家を燃やしそうになったよな。覚えているかな?

学校で虫眼鏡と日光を使って、黒い紙に焦点を焦がす実験をしたばかりだった。

家にあった黒い紙と大きな虫眼鏡。2階でなぜか急に実験をしてしまった。

あの日は日曜日だったのかな、1階には親父がいるのを僕は知っていた。

虫眼鏡で黒い紙に焦点を当てると、学校の小さい虫眼鏡よりも焦点が大きくなる。

なんだ、なかなか焦げないなと思っていたら急に火がつきだした。

混乱した僕は2回の窓から紙を捨てようと思ったんだ。

でも、子どもながらに火事になるかもしれないと判断して大きな声を出した。

「おとうさーーーん」

慌てて燃えてきている紙を持ちながら階段に向かう。

親父はすぐに駆け付けてくれて、洗面所で消火した。あの時の親父は心強かったな。

僕は恐怖を感じていたけど、親父はとても冷静だった気がする。

そのことについて、一言も怒らなかったね。覚えているかな?

「地獄のミイラ」の歌を歌っていつも僕らをビビらせていたね。

「ウーウーウーウー、ウーウーウー」って。こればっかりは文章で表現できないね。

いつも暗い寝室の奥の方からさ、地獄のミイラだといって僕と弟を怖がらせる。

僕らもそれを怖がりながらも、抱き着きにいったもんだ。

このメロディがわかるのは僕と弟。

そして、僕の子どもだよ。

僕も子どもに同じことをやっているんだ。子どもを怖がらせるのは楽しいんだね。

あと、「屁が出る、屁が出る、五秒前。5・4・3・2・1・・・・」とおならをするのも継承しているよ。

うまくおならがでなくて難しい技だね。でも、成功しても失敗しても子どもたちは大喜びさ。

僕や弟が子どもの頃と同じようにね。

実が出ないように気を付けないといけないって注意してるから大丈夫。

安心して欲しい。

親父が仕事から帰ってくると「相撲をしよう」といつも飛びかかっていったよね。

畳の部屋で投げ飛ばされるのが楽しくて、しょっちゅうやっていた。

仕事から帰ったばかりで疲れてたろうに。

それでも「疲れた」という言葉は親父から一度も聞いたことがない。

じいちゃんの代からみんなそうだ。仕事が好きなんだ。朝から晩まで一生懸命働いている姿をみてきた。

不満や文句の類は一切口にせず一生懸命働く。

そんな後姿をみてきたせいかな、僕も仕事が好きだ。

親父の仕事は継げなかったけど、「疲れた」と言わない姿勢は今も見習っている。

こっそりだけど尊敬していたんだ。これはこれからもずっと続けていくよ。

本気で怒られた3回。僕は覚えているのに親父はよく覚えていないようだね。

親父が本気で怒るときのルールは多分2つ。

いつまでもいつまでもグズグズしているときと母親に心無いことをいったときだ。

いつまでもグズグズしていたときは、トイレの横の押し入れに閉じ込められたね。

あれは本気で怖くてたまらなかった。

普段まったく怒らない分、怒ったら怖いという潜在意識はあの頃から植え付けられた。

少し怒る程度なら「梅干しくれるぞ」って頭をぐりぐりと拳でげんこつされた。

あれは滅茶苦茶痛いから、それが怖くて悪いことはすぐやめたもんだ。

でも、残り2回の本気で怒ったときの目は今でも忘れられない。

高校生の頃、母親に向かって「お前、うるせーんだよ」っていったら、親父が本気で怒ったよな。

「母さんに向かって、お前とはなんだ!」って。

あんなに怒っている親父は後にも先にも見たことがない。

もう1回も母親がらみだ。

夕飯のロールキャベツのキャベツがやたら固くて、「キャベツが固い、まずい」と言い続けた。

これは、母親への暴言とグズグズの合わせ技だ。

箸で思い切り頭をたたかれて、「それなら食べるな」と言われた。

母親への暴言には本気の感情がでていた。

そこには母への愛情と尊敬の気持ちがあったんだろう。あんなに働き者の母もいない。

でも、あれだけ怒っていたのに、少し時間が経つとケロっとしているんだから。

しかも、あの頃アレで怒ったよねって話をしても「そうだったけか?」だって。

全然覚えていないんだから笑えてくるよ。


いつもいつも映画を観て音楽を聴いていたね。自慢のオーディオルームで。

病気になって仕事を辞めた後、「音楽や映画で毎日忙しい」って笑っちゃうよ。

自慢のプロジェクターやスピーカー。あんな環境が自宅にあるのは自慢だった。

自分で棚を作ってさ、びっしり入ったDVDやブルーレイ。

よくあんなもの1人で作ったと思うよ。仕事が終わった後の数時間、日曜日だけで。

僕の家で一緒にDIYして作った長机も健在だよ。

一緒に設計図を書いたこと。ホームセンターに板を買いに行ったこと。2人で組み立てたこと。

そこで子どもたちは毎日宿題をしているし、僕はパソコンに向かっている。

親父の趣味だった音楽や映画、モノづくり。子どもの頃から僕たちと一緒にやっておけばよかったって言ってたらしいけど、しっかり受け継がれているよ。

バンド組んで音楽に明け暮れたり、一緒にたくさん映画を観たり、一緒にDIYをしたり。親父の子どもだから遺伝してるみたいだ。

楽しいことには熱中しちゃうとこがある。



一つ謝りたいのは大学生の頃、「俺は親父みたいに普通は嫌なんだ。バンドで飯が食いたいんだ。一度の人生、普通じゃつまらないんだ」って言ったよね。

あのときはごめん。

普通に高校にいって、大学にいって、何一つ不自由なく育ててくれたのに。

それでも僕の気持ちを無言で受け止めてくれた。反論もせずに黙ってさ。

普通がこんなに難しいとは思わなかった。家族仲良く、不安なく生きる。それはとても難しいことだってことは今になって気づいたよ。

音楽で食ってくなんて甘すぎだったよ。行動もともわなずに辞めちゃったけど、そのときも何も言わなかった。





病気になってから数週間に一度、朝病院に車で送っていく。こんな日課も少し楽しみだったりしたんだよ。

僕と父と母、三人の時間が持てるだろ。ただ元気な顔を見せて、話をするきっかけになるから。

入院してるときだって、話をするきっかけになるから悪くなかったんじゃないかな。仕事の帰り際に病院に寄ってさ。

親父と2人で話をする機会なんて、簡単には作れない。貴重な時間が作れた気がするよ。



病院のベッドの上。

苦しむ親父の姿を見て僕も苦しかった。あんなに強かった親父だったから、弱音を吐かない親父だったからこそ。

でも、もう苦しいのはなくなったから大丈夫だね。そばにいても安心だよ。

あんなに腕相撲か強くて勝てなかったのに、今では僕の方が力が強くなってしまったのかな。

太い指に触れると腕相撲を両手でしても勝てなかったことを思い出す。

書きたいことはまだまだあるのに、涙が出てきて文章が書けないよ。

思い出はもっとたくさんあるんだよ。

旅行に行ったことだって、夜中にトランプしたことだって、一緒に仕事をしたことだって、野球を見に行ったことだって、ダジャレばっか言ってだことだって、もっともっとあるんだ。

文章なんかじゃ書ききれないよ。思い出はもっとたくさんあるんだよ。

ありがとう。感謝しかないよ。2人の子どもに生まれてきてよかった。

照れくさいけどちゃんと言葉でも伝えたんだ。忘れないでくれ。

まあ、懐かしい話はみんなともするよ。たくさんがんばったから、少し休んだらいい。

別れ際はいつもおちゃらけて言ってたよな。

「バーイ」って。

手術に行くときの後ろ姿もそうだったし、病院から僕が帰るときもそうだった。

今度は僕が言うよ。湿っぽいのは親父らしくないもんね。

「バーイ」

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