人類は進化しているのだろうか

-どのような生き方が安らぎや幸せを生むのか-
-現代は「自分探し」を超え「自分..」の時代-
-コロナ禍を経ても尊敬し応援し続けたい方々-

2021年の前半が終わりました。
皆様の今年の前半はいかがお過ごしでしたでしょうか。
いわゆるコロナ禍も1年半となり、
多大な社会変革が進み続けています。
それは必ずしも人類にとって進化となっているのでしょうか。
それとも依存や思考停止による価値の統一化になっていませんでしょうか。

人間にとって進化とは何でしょうか。
それは個人が何もせず、常に上げ膳据え膳の状態で暮らすことができるようになることなのでしょうか。

まだ高度成長期であった子供の頃、
学校には「夢」「希望」「努力」「絆」の言葉が飛び交っていました。
それは社会でも同様だったのではと思います。
今の社会で捉えられている寛容の質としては足りず、
差別的な部分はあり反省すべき点もあるとは認識していますが、

「夢」などの言葉に沿った意識を信じ、
力強く、そして個々に工夫を凝らすべく「問い」ながら、
人生を進め・社会が展開していたように思います。

好きなものを全身で好きと表現する
嫌いなものを全身で嫌いと表現する
そこに忖度などないはずです。

今の社会は忖度を知ることから入り、
そこからどう立ち振る舞うかを探っているような状態のようにも見えます。

それは個人にとっても本質的な感覚や感情が鈍くなる。
結果として、工夫を凝らたり「問う」ことを諦めてしまう方も多いように感じます。

私の大学生の頃は「自分探し」として、
バックパックなどに明け暮れた方も多数いました。
かくいう私も大学生の頃東南アジアに度々行っておりました。
結果自分は見つかることはありませんが、
そこにはまだ自身で「何とかしよう」という工夫での思考や行動があったと思います。

今は社会全体として「自分なくし」の時代なのかもしれません。
周囲を気にしながら進んでいくことで、
社会的に処世していく術を身につけていく。
そこに自分はなく、あるのは依存と思考停止による生き方。

でも自分がもたげてイライラし、
それを解消するためマインドフルネス瞑想を使用する。
それでよいのでしょうか。

マインドフルネスは禅から宗教を抜いたものと説明される方がいらっしゃいますが、
本来この宗教部分が生きる安心を得るための思考や実践の本質。
骨抜きになったメソッドを対処療法として行っているに過ぎないのに、
処世の術として身につけていこうというのでしょうか。

禅はイライラして抑える思想や実践でなく、
自らの生活や縁、性格への問いから発した工夫により、
イライラしない生き方に変えていく思想や実践への指針となるものです。

そして問う生き方をされる方々の集合体が、安寧の社会を築くと私は信じています。

自分が亡くなる時、自分が自分として本当に生きてきたと、
胸を張って言えるのでしょうか。

「最新の流行の把握・経済の動向のチェック・純情な精神(とみせかけた)ワーク」
を社会への処世として従順に行っているのは、あなたの生きがいなのでしょうか。

私は「うっせいわ」と言い続ける人間を信用しません。
それは社会への批判を叫んでいるように見えて、自分を否定しているに他ならないから。

スローガンでなく内なるものから沸き出た
「夢」「希望」「努力」「絆」を持っている方を尊敬し応援し続けていたいですし、
それらを持ちづらい方に手を差し伸べ続けていきたいと願っております。

そして、いつの時代も本質的な
「夢」「希望」「努力」「絆」が尊重される時代であってほしいと願っております。

それはコロナ禍による社会変革とは何の関連もないこと。
この世界で人がより安らかに幸せに生きるための根本的な智慧ではないでしょうか。
そして安寧な存在が増えていくことが、私は人類の進化だと考えています。

すべての存在が、輝いて存在していくようこれからも願い実践し続けることを誓います。

2021.7.1
zafu代表 藤井隆英 拝

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