小博打好きのじいちゃんの話


大正時代に生まれて103歳まで生きた小博打好きのじいちゃんの話です。

■はたらかず博打ばかりしている

ぼくの母方のじいちゃんなんですが、岡山県の漁師町に住み、6人の子をもちました。

溶接職人としてかなりのすご腕だったそうなんですが、そこは漁師町、小博打好きがうようよいます。
仕事にはさっぱりいかず、花札や麻雀といった賭場に四六時中出勤です。当然、会社からの給料がありません。
ぼくの叔母が投書し読売新聞に掲載されたのだけど、「教科書も買えずにとなりの子にみせてもらう毎日だった」「醤油や米を近所に借りていた」という有様だったそうです。

ですので6人兄弟のうち上の3人は中学校まで。下の3人は上の3人が働いた金で高校に進みました。
まあこういうのは昭和の中頃までよくあった話ではあるけれど、家長がさっぱり働かなかったためというのがポイントです。

■小博打

盆正月に親戚麻雀はひらかれていてそこでぼくも小学生にして覚えたのだけど、じいちゃんがいちばん強く、常に勝ってました。
会社セットにフリー慣れしたひとが参加してるようなものなのでそれはそうか。

でもじいちゃんは役の知識が半端でした。一盃口を知らないなど。
これはじいちゃんが遊んできた麻雀の種類のためのようでした。

当時じいちゃんが遊んでいた麻雀は東天紅のような一局精算、サンマ。

レートについては見物にいった者の証言によると、外食でラーメンが120円、木村屋のあんぱんが25円、公務員の初任給が30,000円のころに、一局で5,000円からが飛び交っていたとのこと。一半荘じゃないですよ。

その漁師町はちかくの工業地帯からでる公害補償をみなさん受けられていたため、潤っていたんでしょうね。みなさん咳がでるふりをして診断書を書いてもらい、ほとんど全ての世帯がマニーゲットしてたそうです。

なおじいちゃんは子どもに教科書も買わない一方で、咳もでないのに補償なんかいらん!といって貰わずじまいでした。まあ正しいんだけどなんかおかしい。

なんなんでしょう、筋の通らないお金は受け取れないが、みんながもらった補償金を小博打を通していただこうということかな。

ぼくが物心つくようになったころにはいついってもじいちゃんは花札してんなという印象でした。じいちゃんちに行った時の花札してる率は70%はあったと思います。

働かないので借家で五右衛門風呂、トッポン便所、2階に行くための階段がなく、梯子がついてるというしつらえでしたね。
これはのちに長男が家を新築してやります。この長男、自分は社宅に住んだままなのに。

老いてからはキツい博打はしてないようでした。
勤めていた会社はほとんど出勤しない従業員の年金をかけ続けてくれていて、兵役の恩給もあり、月に30万円ほどもらってました。
仕事もろくにせず博打三昧で過ごしたのに、子どもはみなまともに育ち、家を子どもに建ててもらい、月に30万円で余生を送るという楽勝な人生でした。兵役については喋らないのでたいへんだったんだろうけど。

■デイケア施設で無双する

デイケアって、昼の間だけ老人の相手してくれる施設ね。ちょっとしたゲームしたりするみたいです。
そこで遊び人スキルが爆発して、麻雀で無双、ビリヤードは先生を勤めるなどしてました。
そうそう人様から評価されることも少ない生き方だったろうけど、遊び人でよかったね、じいちゃん。

■ボケて

100歳になった時に国から銀の大盃を贈られ、金色のちゃんちゃんこを着て親族一同でお祝いをしたあたりを境にボケ始めました。

ボケてだれがだれかわからなくなってという定番をやりつつ、いちばん面白かったのは麻雀に関するもの。

ティッシュをですね、ちぎっては丸め、ぽいぽいと放っていたそうで、付きの者が眺めていると

ポンじゃ!

でた!(ロン)

と叫んでいたそうです。

子ども世代は、私らの名前もまちがえるのに麻雀のことは覚えとるんじゃなあと言っておりました。

麻雀好きは夢の中でも麻雀をすると言いますが、自分もボケたらこんなかんじかなあと思いました。

(おわり)

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