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おいでよ、徳島。

第5回徳島新聞 阿波しらさぎ文学賞 最終候補作
(徳島文学協会、徳島新聞社主催)


 サチが徳島に逃げた。
 何も言わず、書き置きすら残さず。サチは徳島の小さな島へ、知人を頼って金曜日に羽田から飛んでいってしまった。と、俺はサチを知る友人を脅してそう告白させた。
「もう、誠くんとはこれ以上は一緒に居れないよ。」
 逃げる直前にサチが友人に漏らした言葉だそうだ。だから女は扱いづらいんだ。不満があるならきちんと言い返せ。俺は何度もそうサチに言ったものだが、彼女はその度に悲しそうな笑顔で首を横に振ったものだった。
 仕事はかなり忙しい。だが俺は家事の分担も疎かにせず、休日は妻との外出も喜んで行った。ささやかだが使い勝手のいいタワーマンションも購入した。子供は作らないと二人で決めていたし、経済的には何も不自由はさせていない。妻の趣味にも理解は示していた。何より、俺は妻を愛している。俺に落ち度は無い筈だ。
 日曜日の夜。洗濯カゴに放り込んだままのサチのワンピースを取り出し、燃えるゴミ袋を用意する。鼻血の着いた部分を慎重に裏返し、念のため新聞紙に包んで袋の中に入れる。ちゃんと、謝ったじゃないか。俺だって毎回こんなことをするのは辛いんだ、でも愛しているからなんだと言ったじゃないか。ゴミ袋の口を縛って玄関に放り投げる。明日、マンションの誰にも見られずゴミ出ししなければならないなと思う。

 建材メーカーは大手ですら斜陽だ。国内外の木材価格の高騰で、経営も下請けも圧迫されている状況はどこも同じだ。それでも弊社が数字を伸ばしているのは、ひとえに俺の業績と言っても過言ではない。
 週明けに予定していた客との商談は今回も上手く行った。市場価格の約半値でヒノキ、スギ、カラマツ、及びMDFの半年分の在庫確保ができた。営業部長の橋本が見守る中、俺は相手ともう何度目かわからない握手を交わす。朴勝成、韓国の木材ブローカーだ。ただし、彼が本当は北朝鮮国籍だということは部長もこの会社も知ることはない。
「朴さん、この後、いつものところで一杯やりませんか。席はご用意してあります。」
「ありがとうございます平山さん。ですが、今日は早くに積荷の確認があるので北陸に行きます。皆さんで楽しんでください。」
 逞しい日焼け顔に人好きのする笑顔を浮かべながら朴は流暢な日本語で言った。おおかた、日本海沖で新たな瀬取りのルートを開発でもしたのだろう。彼はいそいそと応接室を出て行った。
「忙しいね彼は。まあ、儲けさせてくれれば良いんだが。」
「今回も大丈夫でしょう。それはそうと、明日から2〜3日ほどお休みを頂きたいのですが……。」
「突然だな。ははあ、嫁とうまく行っていないのか?」
「ええ、まあ……。妻と前々から話し合ってはいたんですが、徳島で知人とスダチを使ったクラフトジンの蒸溜所を立ち上げるんだ、と言うものですから、私も現地に行ってみようと思いまして。」
 俺はとっさに嘘をついて取り繕う。
「なんだ、嫁のコントロールもできないようじゃ困るな。この私が君らの仲人まで務めたんだ。私の顔に泥を塗るようなことはしないでおいてくれよ。」
「は……分かっております。」
 頭を下げて商談室から部長を見送る。チッ。コントロールしていたのにこうなったんだよ。と俺は心の中で毒づいた。

 羽田空港は人混みで溢れていた。掲示板には台風の影響による運休の表示が連なっている。乗る予定だった便を諦めた俺は、外でタクシーに乗り込むと品川駅までやってくれるように運転手へ伝えた。
「お客さん、東海道新幹線?今日、品川で人身事故があって東海道新幹線は全線運休だよ。何でも、酷い飛び込みがあったらしくて、しばらくは無理そうだね。」
 運転手がシート越しにそう言った。おいおい、こっちもか。
「なあ運転手さん、今から徳島まで行ってくれと言ったらどのくらいかかる?」
「徳島?そりゃ遠いねぇ。そうだなぁ、高速使って8時間以上はかかるねぇ。お客さん、ホントに行くの?」
「いや、言ってみただけさ。東陽町までやってくれ。」
 運転手は肩をすくめて車を出す。8時間。家の車は整備してあったかなと考えながら、平日の東京の街並みが流れていくのをタクシーの窓から眺めた。誰もいない東京の街を。

 結局、有給はエンジントラブルのあった車の修理で潰れた。それからしばらくは休みも取れない日々が続いた。会社と、誰もいない家との往復。俺は行き帰りの電車の中で徳島への経路について色々調べた。検索でスマホを酷使した結果、サーチエンジンで出てくる広告サイトは徳島に関するもので溢れかえっている。ついには、家のPCで観るサブスクの動画サービスまで徳島関連の動画を薦めてくるようになってしまった。
 阿波踊り、鳴門の渦潮、徳島ラーメン、スダチ。俺は何度かけても繋がらないサチへの通話を切ると、それらの広告の合間にひとつのニュース記事を見つける。『材木を積んだ北朝鮮の不審船、海上保安庁が日本海で拿捕。瀬取りルート解明か』
 俺はすぐさま朴に連絡をとった。長いコールの後で朴は焦ったような声で電話に出た。
「平山さん、まずいことになりました。日本の公安が私たちのことを探っています。今回はダミーの船が拿捕されただけで済みましたが、次回の積荷以降は、そちらへのお届けが難しいかもしれません。とにかく、北の船で日本海沖には向かいますので、そちら側で積み替えの日本船の手配をお願いしますよ。」
「ちょっと待ってください、それは、」
「この電話も盗聴されている危険があります。ではまたこちらから連絡します。」
 通話が切れた。目の前が暗くなる。

 「以上で手続きの説明は終了です。徳島県の山林及び資産、土地、家屋を相続するにあたっては、当地においてそれらの管理保全に努めていただくように、との叔父様からの遺言です。」
 はあ、と俺は死んだ叔父の代理人弁護士に呟いた。朴との関係を怪しんだ会社から、トカゲの尻尾切り同然に自主退職を強いられた俺は、雀の涙ほどの退職金に加えて自宅マンションと車を売り払い、木材輸入会社を立ち上げた。しかし肝心の北朝鮮産木材ルートは公安の監視の目を気にしながら細々と続けるしかない始末。毎月の携帯代の支払いにも困る日々に、この遺言は渡りに船だった。しかし……
「徳島、行けないんです。」
「はあ?それはお仕事の都合か何かで……」
「いえ、何度も行こうとしたんですが、飛行機で行こうとすれば毎回天候不順で運休になり、新幹線は毎回なんらかの事故で使えず。あげくに交通費にもこと欠く次第の生活になりまして……とにかく、無理なんです。」
「はあ……まあとにかく、遺言では徳島に来ていただくことが相続の条件になっておりますので、そこはひとつお忘れなきように……。」
 去っていく弁護士を見送りながら、俺は震える手で遺言書の写しと必要書類をボロアパートの玄関ドアに叩きつける。よしわかった。行ってやろうじゃないか、徳島。

 なけなしの金をはたいて新宿から高速バスに乗り、まずは大阪へ向かう。駄目だった。高速バスは煽り運転に遭い海老名で足止めを食い、代替のバスは俺に言い掛かりを付けてきた隣の乗客との乱闘の所為で一旦東京に引き返す。警察の事情聴取で頭にきた俺は、有り金全部をかき集めると真夜中にタクシーを呼びつけ、前金を渡すから徳島県まで一気に向かえ、と運転手にまくし立てるが、後部座席で寝ていた俺に声も掛けずに、八十を超えた耳の遠い運転手が夜明けに辿り着いた先は福島県だった。猛スピードで逃げ去るタクシーをわめきながら追いかけた後、俺は空っぽの財布を握り締め、生まれて初めてのヒッチハイクをする。手を挙げる。止まった。荷台にはデカデカとAWA運輸の派手な文字。あわうんゆ。しめた、このトラックなら徳島直行だ。頼む、帰りなんだろ、金が無いんだ、乗せてくれ。それだけ伝えると、怪訝な顔の無口な運転手は頷いて俺を乗せ、トラックは走り出す。長い長い運転中に俺は眠る。眠って、目覚める。目の前には海の見える体育館と大勢の筋骨隆々な男たち。Akita Wrestling Association. 秋田レスリング協会。俺は叫び狂って運転手に殴りかかるが、会場のレスラー達の返り討ちに遭い俺はボコボコにされる。息も絶え絶えに這いずりながら逃げ出した俺の胸ポケットからスマホの着信音が。朴だ。
「平山さん、ひとつお願いがあります。いま、秋田沖の日本海にいるんですが、直接取引の相談があります。秋田まで来れませんか?」

 真夜中に釣り船を装ったボートが秋田港北の防波堤に接岸する。俺は波消しブロックからその舟に飛び乗り、朴の使いらしい男に両脇を固められながら沖へ出る。モーター音も静かな舟は、丸太を満載した材木運搬船に近づき、苦労して俺は船に乗り込む。
「残念なことになりました、平山さん。今後の取引は全面中止になりました。お世話になりました。」
 甲板にはスーツ姿の朴が悲しそうな顔をして立っていた。
「は?どういうことですか。何か手違いでも……」
 黒いマスクをした男たちが両腕をガッチリ抱え、身動きできない状態になった俺は急に何かを悟った。冷たい汗が背中を伝う。
「韓国と日本の公安が煩くて、しばらくビジネスは中止です。つきましては最後に証拠の隠滅をと思いまして。」
 腰に後ろ手を回した朴が、映画やテレビで良く見たことのあるものを取り出す。慣れた手つきで手に構え、俺に向けて……
「さようなら、平山さん。」
 その瞬間、俺は吼えながら両脇の男どもを振り払った。身を低くして前のめりになり、一気に朴の手を掴み捻じ上げる。落ちた銃を拾い上げ、以前韓国の射撃場で習ったのと同じように安全装置が外れているのを確認すると、銃口を朴の膝に向け引き金を引く。パカン!頼りない音の後で朴が悲鳴を上げる。そしてすぐさま銃口を朴のこめかみに当て、俺はこう叫んだ。「船を!すぐに!瀬戸内海へ向けろ!俺は徳島へ!徳島へ行って俺の幸せを取り返すんだ!」

「久しぶりだね、誠くん。幸です。こっちは元気だよ。突然いなくなってごめんなさい。でも、ああでもしないと誠くんも私もダメになっちゃう思ったから。そして、もう私に暴力は振るわないって約束してくれるなら、徳島に来てほしいの。今度こそ、ちゃんと話し合えると思うから。じゃあ、待ってるね。」
「お世話になっております。代理人弁護士の井澤です。叔父様の相続の件ですが、平山様のご親戚を名乗る方が相続人として徳島に来ております。つきましては、遺産分割調停が起きる可能性がありますので、至急徳島へいらして、当法律事務所にお越しください。宜しくお願いいたします。」
 そんな留守番電話と、海上保安庁の巡視船の警告を交互に聴きながら、船は全速力で日本海を西に回り瀬戸内海へ入った。慣れぬ内海の島々を縫うように船は走り、何回か威嚇射撃の音も鳴り響く中、甲板に座り込んだ俺は朴に銃口を突きつけながら寒さに震えている。
「平山さん、もう無理だ。予備の燃料も無くなった。このままじゃ私たちは破滅で──」
「その場合は俺だけでも海に飛び込んで徳島に行く。」
 出血で弱々しくなった朴の声を遮るように俺はつぶやいた。スマホの充電が切れる前に最後に見たネットニュース(不審船、日本海から瀬戸内海へと逃走か)に表示された広告バナーは、徳島観光協会の『おいでよ、徳島』。向かってるだろうが、徳島。もうすぐそこに、あと少しの距離まで来てるだろうが。止まりなさい。止まりなさい。巡視船の拡声器の声が頭の中で鳴っている。でも、行くよ、徳島。スマホを海に投げ捨てた俺はふらつきながら立ち上がり、積荷の丸太を縛っているロープを一本一本確認しながら銃で撃ち、バラバラになった丸太の山を海へ蹴り落としていく。地獄へ堕ちろ。朴の叫びが聞こえる。弾切れになった銃を巡視船に向かって投げつける。俺は一本の丸太にしがみつき海へ───

 ねんね浜の松 ねむろとすれば ヨイヨイ
 磯の小波が ゆりおこす ゆりおこす
 磯の小波が ゆりおこす

 しがみついたアカマツの丸太がゆっくりと波に揺れている。死んだ親父とおふくろが歌ってくれた子守唄を思い出す。朝焼けの真っ赤な空の下、頭上に見えるのはたぶん鳴門大橋だ。流されて流されて、眠ろうとすれば波に起こされ、同じような風景を何度も繰り返し眺めて、俺と丸太はゆっくりと円を描きながら回る、回る、回る。
 そしてもはや進んでいるのか回っているのか分からなくなった頃、やっと、眠りが訪れる。

 おいでよ、徳島。来たよ、徳島。

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