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読書感想#16 【西谷啓治】「近代の超克私論」

 近年、宗教に対する世間一般の理解は深まってはいるものの、いまだ宗教が偏見なしに受け入れられるという段階には来ていません。何かしらの嫌悪感を感じない訳にはいかず、また必要とされる場合には避けはしないものの、用件なしには決して近づかない、そのような一定の距離が置かれているのが現状です。昨今は宗教に対する一般教養も高まり、頑なに宗教を拒むべきではないという流れになりながらも、私たちは宗教が引き起こす実害を知っているので、それを無視して手放しに歓迎する訳には行きません。畢竟、宗教は避けられるべくして避けられているのです。

 宗教は事件を引き起こします。果たして何が引き金になるかというに、思うにそれは宗教の持つ征服的な性格の故です。神への帰依を強調しては、それによって個人の恣意的な自由を抑圧しようという性格が、結果的に私たちに悲劇をもたらすのです。神といえども所詮、人間にとっての神は全て人間による解釈的な存在です。人間によって神の啓示が幻想され、人間によって人間にそれが伝達されるのですから、畢竟それは人間による人間の支配に他なりません。少なくともその可能性を孕んだものが宗教なのです。

 宗教の怖さは単なる支配ではなく、洗脳による支配であるところにあります。私たちは支配に対しては躊躇なく反抗の灯火を上げられますが、洗脳に於いては先ずその自覚がないので、そこに至るということが出来ません。無自覚のまま誰かのいいなりとなって、その人にとっては罪を犯すことさえ罪ではなくなるのです。

 この最悪の事態を回避するには、宗教を常に自分事としなければなりません。神や教祖に盲目になるのではなく、畢竟は自己を通して自己を見つめ直すことでなければなりません。即ち自己を深く考えることでなければなりません。そしてこれが本来の宗教でもあるのです。 

 しかしもちろん自分の事だけを考えていては、私たちの共同生活は成り立ちません。私たちにとって共同体の存立は不可避の要請である以上、自分を大事にする一方で、同時に自分以外の存在も受け入れなければなりません。斯く意味に於いて、やはり宗教は利他的な意味合いを持つのです。

 しかし利他的とはいっても宗教に於いての利他は、自分が損を被って誰かが利を得るというのであってはなりません。自らも他もそれぞれの我を殺し、共同的な全体を生かした、この全体に於いて自らも生きるということでなければなりません。そしてこれが真の宗教の姿なのです。これはある意味では私たちの自己否定ですが、同時に却って自己否定即自己肯定でもあります。征服による世界観ではなく、自覚的な世界観、即ちこれが宗教なのです。


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